見出し画像

Etude (29)「人生とはそれぞれの役を演じることなのか」

[執筆日 : 令和3年4月29日] 

1.政治を考える上で重要な論点とは
 岩波書店「岩波 社会思想辞典」の「政治」の項を担当された川崎修(立教大学法学部教授、ハンナ・アーレントの研究家)さんが政治について、以下のように記述しております。
「政治の概要を最大公約数的に概括するならば、その中心にあるのは、意見や利害が異なる複数の人間の間で秩序を形成・維持・変容する営み、言い換えれば、人々の間の差異の存在を前提に、その差異は極端な対立に至らないように監理・制御する行為ないしは技術という概念である」
「政治には一方で力による強制が不可避だとされるとともに、他方では、そうした強制には正統性が必要だとされる。つまり、強制させる政策が公共の利益に合致しているとされたり、また、”われわれ”としての共同性の意識が創出・維持されたりすことが必要だとされるのである」
 そして、そのような政治の概念を考える上で重要だと思われる論点として、「合意・差異・対立」「強制と権力」「公共性」「排除と包摂」「政治の拡散」そして「完全秩序と偶然性」を挙げております。
 
 人というものは、傾向としては、効率性(時間、エネルギー、経済コスト等低減化)を目指す文明人としての側面(脳の意識の問題)と、芸術・文化などの非効率的なものへの憧れ・郷愁を拠り所とする文化人としての側面(心の問題)を併存しながら生きている生きものだと思うのです。政治は自然科学とは異なり、人間という意識と心を有する生身の存在の行動に関することでありますから、ある意味では不完全であり、ある意味では相矛盾したものでもあります。人間は、極端なことを言えば、昨日まで好きだったものが今日は嫌いになる、そんな存在でもあります。日本人が他国人と比してより政治的であるかは分かりませんが、少なくとも、無常観を持っていることから、あまり政治に、つまりは為政者に対して完全な信頼性を抱いているとは思えないのです。日本の政治を考える場合、社会主義とか共産主義という主義とは違う、あの「なさけ」を政治家なり為政者が持っているかどうかが大きいように思います。慈母的というか、最も近い存在としては、聖徳太子(厩戸皇子)のような政治家でしょうか。かつては、天皇系の人が政治を司った時代もありますし、それだけでも、日本の政治というのは、西欧に見られる国家観、民主主義観に基づく政治とは大分違うような印象を持っております。
 違いを前提として考えるのが政治ということでありますから、先進国首脳会議では、G7諸国は共通の価値観を共有する仲間であるかのように、お互いの結束を謳う訳ですが、私的には、それは違うでしょう、ということになります。国際政治は、まさしく川崎さんが挙げた論点がそのまま当てはまる領域のように思います。
 そうした幾つかの難問を考えるのが政治であり、政治学ということでありますので、一日考えた程度では、分かるはずもないのですが、私の素朴な考えというか、疑問点は次のようになります。

(公共性の問題)
 例えば、民主主義政治では、過去の選挙でマジョリティーを得た政権党の意見(政策)に私たちは黙って従ってはいます(従わない人も当然います)が、国民のマジョリティーの支持を得た者の意見が、最大公約数的な公共の利益に合致した正しい選択であるかは分からないわけです(例:コロナウイルスの感染を予防するのが主眼であれば、高齢者を優先的にワクチン接種するよりも、感染力の強い若者を優先する方が効果的でしょうし、労働力として価値の少ない老人よりも、将来的にも労働力として価値の高い若者を救う方が大きな利益になるはずです。)

(完全秩序と偶然性)
 一方、国民が選挙によってある期間(任期)、ある政党(政治家)に政治を任せた以上は、その期間は多少の失敗があっても我慢しましょうと、国民が持っている権力でもって、白紙に戻すようなことはしないというのも民主主義の暗黙の約束になっているわけです。しかし、より良い将来を創造するために政治家に任せたとはいっても、事情変更があった場合、任せられた政治家がそういう事態には不適合であることも多々あるわけで、そういう事態には、今の民主主義の制度は必ずしも上手く機能しないのです。コロナ禍は顕著ですが、他国から不意に攻撃を受けた場合は想定できるとしても、他国と戦争状態に入るということは憲法にも書いていない訳ですが、そうした想定していないことが起こった場合、民主的な制度というものは、案外柔軟性や機動力に欠けるのではないかと。

(民主主義と複数政党の関係)
 複数政党制が良いと思われている民主主義ですが、米国は2大政党制のようなものですし、英国もしかり。しかし、民主主義的な国家は、複数政党でなければいけないというものではなく、要は個人レベルでの自由に基づく多様性の尊重と、政治レベルでの多様性の尊重というものは、分けて考えないといけないように思うのです。勿論、違う立場からの議論を通じていわゆる正論が生まれるというロジックからすれば、プラスとマナナスのように、最低2つの党があった方が論理的結論が導き出されるというのは理解は出来ますが。
 昨今の民主主義というのは、国民(住民であり、市民ですね)が主権を有し、主権に基づいて権力を行使する(あるいは委任する)という手法であります。手法を政治の形態といってもいいのですが、政治の形態というと、他人行儀な気がします(他の誰かが監視しているようで)。私がよくわからないのは、民主主義国家という言い方で、法治国家は解りますが、物理的に物としては存在していない国家が民主主義的であるということがよくわからないのです。
 というのも、国家を運営する視線で考えば、運営者の、つまりは為政者(王様、あるいは大統領といった元首が、あるいは行政府の長である首相、加えて与党)がマネージメントしやすいような国家機構にすることが重要であって、国家機構に従事する、例えば公務員が民主的に働いているかといえば、そんなことはないし、警察も軍隊も決して民主的なものではないでしょう。つまり、国家(=元首)は民主的であることが絶対条件ではないし、足かせにもなるということです。他方、国民(市民でもいいのですが)をマネージメントする観点から言えば、民主主義とは上手い手法で、国民の政治的な権利の行使のために使えるという口実(ガス抜き効果もあり)にはなります。

(ポピュリズムと一党独裁)
 ポピュリズムも、民主主義から生まれたものですし、一方、一党独裁は、国家の生き残りのために、主権者である国民が生み出したものかもしれない訳ですし、民主主義の全否定とは言えないと思うのです。民主的であるか、そうでないかは、国民がその主権を委譲する手続きプロセスが民主的であるかどうか次第でありますから、委譲が他者からの強制的なものであるかどうかがポイントになります。が、何をもって強制的であるかを判断する明確なメルクマールがあるようで、無い気がするのです。自由意志で国民が共産党を支持しているのであれば、一党しか政党がなくとも、それ自体民主主義の否定ではないでしょう。複数の政党があることをもって民主主義国家であるという論理は、説得力を持たないと思うのです。その辺を解決しないと、民主主義の旗だけでは、ポピュリズムにしても、一党独裁政権の問題は解決しない気がします。

2.政治とはそれぞれの役を演じることなのか
 ところで、モンターニュのつぶやきでご案内した堤林剣・堤林恵」「オピニオンの政治思想ー国家を問い直す(岩波新書)に、大変面白い視点の話がありました。それは為政者の支配の正当性が何に依拠するかということであります。支配には、マックス・ヴェーバーの3つの支配「合理的支配」「伝統的支配」「カリスマ支配」がありますが、人が支配者に従うのは、支配者の意見、オピニオンに従っているということであります。そうした統治の原理をオピニオンに着目した人が、ヒューム(1711-1776、「人間本性論」の著者)であり、ヒュームは、次のように述べています。
「哲学的な目でもって人間的な事象を検討する人びとに何よりも驚異と映るのは、多数が少数者に依って支配される時のたやすさ、そして彼等が自らの意見や情念を支配者に委ねてしまうあの盲目的な服従である。はたしてこの不可思議な出来事が何に起因するのかをたどっていけば、力foriceが存在するのは常に支配される側のほうであり、支配する者たちを支えているのはもっぱらオピニオンだということに気がつくだろう。したがって、統治の基礎となるものはオピニオンにおいてほかにない。そしてこの格率は、最も専制的にして最も軍事的な政権にも、最も自由かつ最も民衆に開かれた統治とはまったく同じように当てはまるのだ」ヒューム「統治の第一原理について」(1741年)
 ところが、堤林さんは先見の明があるというか、ヒュームよりも早くオピニオンについて述べていた人物がいたとして、17世紀に英国外交官・著述家として活躍したウイリアム・テンプル(1628-1699、ジョナサン・スイフトのパトロンとも言われる)の次の言葉を引用しているのです。テンプルとヒュームは殆ど同じようなことを述べているのです。まあ、英国に見られる「加上」の原理ということなんでしょうね。

「夥しい数の人間をして自らの生命と財産をひとりの人間の意志に絶対的に服従せしめるのは、愚かさではなく、すべての統治の真なる基盤であり、権力を権威に従わせしめる慣習ないしオピニオンの作用である。だから、力から生ずる権力はいつも多数者たる被治者の側にありながらも、オピニオンから生ずる権威は少数である支配者の側に存するのである」
    ウイリアム・テンプル「統治の起源と本性に関する一試論」1680年

(演説が上手か下手かは日本の政治ではあまり意味がないのでは) 
 前米国大統領のトランプの演説を聞いていると、それが全て真実であるかのように聞こえてくるのは、彼の演説がどこか牧師の語りと似ているからかもしれませんが、彼のオピニオンに従う米国人が多かったのは、正にヒュームやテンプルの言うとおりかもしれません。大統領制の国では、確かに選挙においてどちらに投票するかという選択肢では、演説の上手な方に投票するでしょうし、それが自然なのでしょう。ただ、どうでしょう。日本という国の政治においての考察では、オピニオンが果たしてそれほどまでに重要であるのかどうなのかといえば、難しいところでしょう。日本の主権者である国民は、一般的に政治家のオピニオンに従っているとは思えないからで、それは政治家が演説は下手ですし、またオピニオン自体も怪しいものがあるからです。

(「聖なる天蓋」を解き明かすのが政治学者の使命では) 
 「オピニオンの政治思想ー国家を問い直す」は、勿論勉強にはなります。西欧の中世以来の支配者の正統性や、死なない国家の誕生、特にリバイアサンの話もそうですし、フランス革命の話もそうですし、日本が経験し得なかった歴史を学ぶことが出来る訳ですから。しかしながら、学問というものは、外国のことを学ぶとしても、最終的には自分自身(つまりは日本のこと)を知るためにある訳で、日本の政治への言及がないことの理由が分からないのです。また、政治をオピニオンから見る視点は素晴らしいのですが、政治におけるコミュニケーション論というか、技術論的(あるいは、ソフトパワー論かもしれません)になっている面が強いのではないかと思うのですね。
 それとなんと言ってもですね、堤林先生ご自身が、「歴史が力を持つのは、人間が同じ過ちを繰り返している時ではなく、繰り返さないよう過去を記憶している時なのだ」と、書いているのに、日本の国家のことについて、日本のデモクラシーのことについては、一切触れていないということは、日本では繰り返さないように過去を記憶していないから歴史が力を持たないのだということを言いたいのか、その辺の真意が見いだせないのです。なお、日本への言及は一箇所だけあります。
「日本の文脈においては、第二次世界大戦終結によって、「国家という全体性による死の意味づけ」が失効したことを市野川容孝が指摘している。祖国のために死ぬことが称揚された結果として大量死がもたらされ、この「死にがい」について語ることはタブーになった。」と。
 「聖なる天蓋」という言葉が社会学にはあるそうで、それは生まれてきた意味や死の理由を普遍的な物語として蔽うもののようですが、結局、日本では国家=国民の従属的死(あるいは殉死)、を意味するから、あえて国家は扱わないということなのかなあと。しかし、国家を語らずに、政治を語るのは無理があるし、結局、日本で政治(学)が不毛、デモクラシーが不毛なのは、政治家も含めて国民が国家のことをオピニオンしない(意見を持たない、持てない)からなのかもしれませんね。国家を語ることはタブー、そうなんでしょう。日本で国家やデモクラシーを考えることは、タブーであって、恥部をさらけ出すことはご法度なんでしょうね。が、しかし、少なくとも政治学者はそうした闇を照らすことを使命と思っているから、政治学者ではないかと思うのであります。

(政治の舞台における個人の果たすべき役とは) 
 また、堤林さんがお好きそうなシェークスピアの戯曲は、フィクションではありますが、真実性をより際立たせることが出来る芸術でありますので、そういう意味合いで、堤林さんの本の最終「結」のサブタイトルが「全て世は舞台」で、舞台に立つ役者のセリフのような以下の文章が終わっているのも頷けます。確かに、福沢諭吉も「大根役者が殿様の役を演じたり、名優が端役の通行人の役をすることもあるが、それぞれが与えられた役を演じるのが人生」みたいなことをおっしゃていますので、人生というものは、畢竟役者が舞台で与えられた役を如何に演ずるかでもありますし、役が固定されていないのが人生でもあります。が、政治もそうだと言われると、なんとも。役者は劇作家、あるいは舞台監督から役を与えられるだけの、言わば神の手で操られる受身的立場、政治における個人は、自らの自由意志をオピニオンする、より主体的で自立的立場にあるものだと思うのですが、如何でしょうか。
「歴史が与えてくれるかぎりの道具と衣装とセリフを身にまとい、スポットライトに照らされた舞台で目を凝らして語り続けよう。いつの日か次の役者に立ち位置を明け渡すまで、芝居を演じ続けよう。美しいカーテンを背にしたここが人間の、我々の生きる場所である」                                 (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?