モンターニュの折々の言葉 413「市場経済の失敗とその後の世界とは」 [令和5年6月2日]

「今日の危機は要するに、利益社会の行き詰まりであります。この行き詰まりを打開し、今日の危機を救う道は、共同社会への復帰以外に方法はありません。もしそれができなければ、世界は永遠に平和の来る望みはありません。いかに困難であるからといって、このまま放置することはできますまい。」

小島祐馬(1881-1966、京都帝国大学名誉教授)

 今日は台風の影響で、大雨。週末も荒れ模様で、ゴルフでもしようと思っていたゴルファーは涙しているかもしれません。梅雨は、確かに嫌ですね。洗濯物が乾かないし、ジメジメして、心までジメジメしそうです。でも、救いはあります。紫陽花がとても綺麗だということ。紫陽花を眺めながら、梅雨も満更捨てたものではないなと、思っております。

 私の知らない世界ですが、将棋の名人に最年少で藤井さんがなったようで、7冠達成は、羽生さん以来。藤井さんの脳は、AI以上に凄いようで、まさに天才なんでしょうが、こうした若い人がトップに立つことが出来る日本という国は、豊かで幸せなのか、貧乏で不幸な国なのかがわからなくなります。というのも、藤井さんほどの才能があれば、他の分野(より生産性のある分野で)でも活躍できたのではないかと思うのですが、そうではないから。

 大学の授業でどんなことが経済学で学ばれているかわかりませんが、私の日本を観る分析の手法の一つに、昔とった杵柄であります、経済学があります。経済ではありません、念のため。大学で学んだ経済学と、その後の実務で知った経験からなる知識だけですから、不正確さは自覚しておりますが、日本が上手く行かなくなった理由の最大の原因は、資本主義の土台というか、柱である市場が機能しなくなった、市場の失敗に尽きると思っています。

 日本の戦後の経済成長は、端的に言えば、最小のコストで、最大の利潤をあげるためのメカニズム、システムに依存したことであり、それは取りも直さず、市場の恩恵を享受できたからであります。最小限のコストのために、人件費を抑え、他方で、技術革新を並行的に導入しながら、市場メリットを拡大していったのが日本式経済でしょう。そこには、国家が呼び水的に予算を配分しての、どこか社会主義的な計画経済にも似た手法があってのこと。

 効率性重視の日本式経済は、市場が機能していることが前提ですが、歴史の終焉とも言われた1990年代から、日本経済がおかしくなったのは、これは何も資本主義が勝利したのではなくて、共産主義が経済的にはおかしいことが白日の下に晒されただけで、市場の勝利とは言えないに、何故かその後も日本人は市場崇拝は継続する訳です。米国が経済の鏡ですから、しょうが無いでしょうが、米国経済がおかしくなっても、それが市場の問題、失敗であるという風には行かずに、あいも変わらずの経済運営。上手く行く筈がないでしょうに。

 市場のメカニズムではもはや上手く行かないならば、それに変わるものを産み出せばいいのでしょうが、現状はボロを縫うかのようにした、継ぎ当てだらけの資本主義というのが実態ではないかなと、私は思うのです。勿論、これを経済学的に証明するのは、私には荷が重すぎますが、市場というのは、ご案内のように、資源の最適分配が価格と量に関する需要と供給の曲線を介して自動的になされる場であります。

 資源には、当然人的資源も含まれるわけですが、一般に経済学は、この人的資源を計量化できないので、モノ(カネ)が中心であります。しかし、よくよく考えたらわかるように、市場は人の手で交換される場ですし、人的資源がどのようにしてなされるかのメカニズムも学究の対象ではありますが、これはそう簡単なことではないでしょう。行動経済学でもそれは解けないと思います。というのも、人的資源の配分は、市場は市場でも、労働市場で決まりますが、ここが曲者。

 ちなみに、市場では、競争は原則的に自由競争です。ところが、労働市場は、その自由が歪んでいるわけです。いまは大分改善されて来ているでしょうが、学歴の違い、性差の違いなど、競争は平等ではないでしょう。日本の場合、学歴は大卒か、高卒かの違いでなくて、どこの大学、どこの高校を出たかが重要ですから、真の競争はあるようでない。その点では、ペーパーテストは公平といえば公平でしょうが、そもそもペーパーテストで人の能力を判断することが出来るかどうかは怪しい。ペーパー信仰というのは、AI信仰のようなものですから、そうしたペーパー能力のある人が現実の経済の場で本当に役立つかどうかは未知数でしょうが、人を評価し、判断するものがペーパーしかないままやってきて、これはどうもペーパー試験の内容が悪いから、内容を変えようとして試行錯誤はしているけれども、ペーパー信仰には変わりがないのが日本でしょう。

 で、市場は売り買いの場ですから、人によっては、そんなはしたない、みみっちいことをしてお金を稼ぐなんて嫌だと思う人もいるわけで、そういう人は資本主義の労働市場には入っていかない。結果、スポーツもそうですし、将棋や囲碁といった、どちらかと言えば遊び的で、ややギャンブル的な世界に、あるいは学究の世界とか、文学もそうですし、芸術の世界といった市場とは縁が遠い世界に向う訳です。

 労働市場は基本的に、いわゆる利害関係からなる利益共同体的なゲゼルシャフトの世界で働く人を選別する場(組織人として組織のために生きることを選択した人の場)ですが、私たちが働ける場所としては、温情的で親和的な共同体のゲマインシャフト(親子関係とか友人的関係の互助的な場で運命共同体的な人間として生きることを選択した人)があります。今の日本は、概ね、ゲゼルシャフト的組織ですから、組織内での競争があるし、組織外との競争という、2つの競争に日々晒されているでしょう。

 組織人というのは、基本的に競争に強くないと生きられない宿命を持っている訳で、組織で成功する人は、競争に強いということなんでしょうが、今の日本経済の弱さの原因というのは、複数あるでしょうが、果たして、今の日本(企業)は本当に競争に強い人、能力のある人を正しく選別してきていたのか、と素朴に疑問を感じるのであります。それから、皆がそうであったとは申しませんが、かつての日本の経済の良かった点としては、会社というのは、純然たる(資本家のための)ゲゼルシャフト的な場ではなくて、どこか家族的で運命共同体的な場でもあって、そうした心情を抱かせる場であったわけです。ですから、まあ、給料が多少低くても、我慢できたのでしょう。

 よく失われた20年とか言いますが、私的には、失われたのではなくて、浪費した20年だと思いますね。フランス語で言う、ギャスピヤージュですね。優秀な人材が、優れた能力がどこかに霧散してしまったのが、1990年以降の日本ではないかと。本当にもったいない、残念です、こうした無駄遣いは。組織人として、組織のために身を粉にして働く人はこれからどんどん少なくなるでしょうね。女子の就職先を見ているとそんな気がします。男子はまだ、肩書とか、名刺に未練がある人が多いでしょうが、これも早晩変わるでしょう。

 日本のためとか、ある会社なり、特定の組織・共同体のために一生働くことは、市場の原理が有効に機能している限りにおいて、正しい選択かもしれませんし、資本主義は、資本家が永遠に儲けるメカニズムであるということでは正しいようですし、存続するのでしょうが、働く人にとって、そして、人間として生きるには、もう終わりなんじゃないのかなあと思うのであります。じゃあ、どうするのと言われると、冒頭の言葉になるのですが。どうも失礼しました。

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