モンターニュの折々の言葉 388「モンターニュは見つけたり、人生の極意を!」 [令和5年5月8日]

 私のゴールデンウィークは、バイトの準備で終わった感じがしないでもないのですが、英語の問題集をなんとかやり終えたものの、中学生向きの参考書・問題集と、高校生向きのそれらを比べると、基本の文法はそれほど違いがないことがわかります。中学校で習う英語を完璧にマスターすれば、日常的な会話が出来るようになるというのも頷けます。  問題集をやってみて、英語にもそんな表現があったかと感心したのが、不定詞の用法になりますが、learn toという表現。これは・・することを習う、・・することを身につけるという意味の表現ですが、学習というのは、学ぶ仕方を身につけるということでもありますよね。人が何かを学ぶ、学習するというのには、最低3つの意味があるでしょう。  一番は、実用的なことを学ぶということ。生徒さんや学生さんにとっては、学校でのテストや試験に合格するために学ぶということ。あるいは、就職するために学ぶということ。これは何も悪いことではないでしょう。それと同時に、学習の仕方を学んで身につけるということ。身についた学び方は、一生役立つ可能性がある訳です。こうした能力をスキーマ、なんて言うようですが、短期的な情報の獲得ではなく、身体にも馴染んだ長期記憶を習得するためのノウハウである能力を身につけるのも学ぶ意味でしょう。


 で、大体は、この2つで多くの人は人生を終える訳ですね。しかしながら、学ぶ達人というのは、孔子が「論語」で諭しておりますが、「楽しむ」人であります。そう、のうのうとして遊べるというか、学べる人間がです。私が昨年初頭からやりだした「モンターニュのフランス語講座」、途中で逃げ出した方も何人かおりますが、幸いまだ継続している方がおりまして、そのための準備もしないといけないのが、私の日々。昨日でしたか、受講生の一人が、受講料を送金しましたと連絡してきたのですが、この方の場合、実は、私がお金を頂戴するのははばかれるような状態なんですが、それでも、一年分をまとめて送金してくれたのです。  奇特な人だなと思いますが、先日、東京駅前のイタリアンレストランで食事をご馳走してくれた受講生も、これも大変な変わり者で、私からフランス語を習うことが本当に役立っているのかは怪しいのですが、そんなことは意にも介さず、沢山受講料を納入してくれているのです。そして、会うときには、食事代まで払って。なんなんでしょうね。  で、思ったのですが、彼らは、基本、のうのうとした人たちなんじゃないのかなあと。つまり、あることを学ぼうとするのは、実用性は二の次で、楽しみを味わいたいからするのではないのかなと。よく言えば、私とメールなどで繋がっていることで、フランス語の学ぶ仕方を多少は学習することはあるのかもしれませんが、それ以上に、仮に私にあるとすればですが、人徳のようなものに触れていたいというか、そんな感情がどこかにあるからなのではないのかなあと。若い男女の間でならば、これを恋というかも知れませんね(笑い)。年齢の違う同性の間なら、親子の関係とか、あるいは兄弟、姉妹の関係とか。

 そうなんですね、学びの心というか、感情は、ある種の恋的なものなんだなあと、最近つくづく思うのです。だから、老いても学ぶ心、つまりは楽しみを求める心をもって、「のうのう」としている人はいつまでも、健康で元気で若いのではないかと。私のフランス語講座、そういう効用があれば、望外の幸せでもありますが。

 純然たる学びとは多少異なりますが、今日、1週間ぶりにゴルフ練習場に。1週間前に練習した時、最後のサンドウエッジで打ったボールがシャンクして、このシャンクとこれからも共存していくしかないのかなあと思ったのですが、今日は、全く出ませんで、最後のサンドウエッジのボールは、ものの見事に網のネットにイン。何故上手くできたかを技術的に説明をするのは、私の能力を越えますが、要するにリズムなんですね。

 ところが、人間も他の生物と同様に、日々細胞が変わる生き物。1年前の姿をしているように見えても、内部は変化している。7年か、8年すると、細胞は全て新しい細胞に入れ替わって、別の人間になるとも言います。ですから、昨日調子が良くても、今日良いとは限らない訳です。ゴルフの4日間の試合を見ていてもそれがわかります。昨日の身体とは違う細胞ですから、リズムは同じではある筈がない。ところが、ヘボに限って、前のリズムに固執する訳ですね。結果墓穴を掘る。そう沢山掘る訳です。

 問題というか、課題は、如何にして、その時のリズムを生み出すかであって、自分のリズムは固定した、生涯一定のものではないということを肝に銘じてですね、その時その時の最善、最良のリズムをこしらえることであります。そこから、学びが始まる訳です。リズムを司る部分が何処であるかは、個人個人で違うでしょう。それが個性。個性は身体の個性であるというのは、まさしくそういう事なんですね。幸い、今日は、私のリズムのポイントは分かった気がしますが、次回もそうであれば、これで一つ、スイングを身につけたということなんでしょう。

 最後に、気になった話をして終わります。中学の英語の学習で、あまりよくできなかったのが、前置詞の使い方。「太陽は東から昇り、西に沈む」と日本語では言いますが、これの英語訳、あるいはフランス語訳は、似て非なるもの。 The sun rises in the east and sets in the west. 太陽は東に昇り、西に沈む。 フランス語は、 Le soleil se leve a l’est et il se couche a l’ouest.太陽は東に登る(起きて)、西に沈む(寝る)。 英語で、「に」はinという前置詞が使われて、フランス語ではa という前置詞が。inという前置詞は、「・・の空間に中で」と何かに囲まれた感じを表す前置詞として説明されているのですが、フランス語のaは、囲まれた空間よりも、ある場所、ある地点を指す前置詞です。 日本人なら、太陽は東に登るとは言わずに、東から登ると思っていますから、from the eastとして、西に沈むはto the westとしたいのですが、そうではないというのが英語であり、フランス語。

 何故なんでしょうか、この違いは。英語の先生やフランス語の先生に聞いたこともないので、この違いが何に由来するかはわかりませんが、思うに、言語は、特に書き言葉が生まれたきっかけは、神の言葉を伝えるためであり、神との対話であり、あるいは、神から使わさせた者との交信のためだったと考えると、英語もフランス語、キリスト教の神と密接に関係していて、自然界というのは、神が作ったモノですから、自由かってに動いてはいけない存在でしょう。自然に自由意志を与えない、勿論人間に対してでもそうですが、ですから、太陽のある場所は、英語ではinというある囲まれた場所の前置詞であるinを使い、フランス語ではある地点にあるというaという前置詞で表現したのではないかと。

 他方で、日本人の神は日本人に酷似している存在でもありましたし、自然自体も一種の神で、移動の自由、行動の自由が許されていた、ですから、太陽も東から西への移動が出来る存在として、東から昇り、西に沈む存在として表現できたのではないかと。語学の勉強は、こういう差異に目を配ると、それまでに見えなかったものが見えてくる可能性をもっていて、飽きない訳です。そう、のうのうと遊べる世界で、それ故に、よくはわからないけれども、英語を、そして、フランス語を学んでいるのかなあと思うのであります。どうも、失礼しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?