モンターニュの折々の言葉 370「私もそろそろ老人になったかなと思ったら、選択肢は可能な限り少なくすること」 [令和5年4月19日]

  今日もいい天気ですが、散歩の楽しみを奪うかのように、選挙運動のための選挙カーが喧しい。何をしたいのかという話よりも、所属の政党名、そして候補者の氏名を連呼し、お助けください、宜しくお願いします、だけの選挙運動。これで最適な候補者が絞られるとは到底思えないのに、何故かこのスタイルは変わらない。

 変わらない日本ですが、私が思うに、日本人は少なくとも、歴史に関しては、健忘症か、あるいは、認知症の国民だろうなと。過去はすべて水に流してきた国民ですから、相当な認知症国民でしょうね。

 先日の月曜日に、ゴルフに行くのに、財布を忘れたという話を書きましたら、同期の一人が、それは認知症の初期状態かもしれない、気をつけないといけないという忠告が。認知症は、確か、過去の出来事を、特に最近のことを覚えていないという記憶の欠陥症状が出るという風に理解していました。

 ゴルフに行くのに、ノコギリや斧を持って行った訳でもないし、ゴルフボールの代わりに、野球のボールを持って行った訳でもない。財布を忘れたのは確かですが、財布が必要になるのは、家を出た後の、ゴルフをした後、つまり未来において。現在よりも先の時間において必要とするものを忘れるのは、認知症ではないのではないかなと思いますが、如何でしょうか。

 先日の月曜日に、ゴルフに行くのに、財布を忘れたという話を書きましたら、同期の一人が、それは認知症の初期状態かもしれない、気をつけないといけないという忠告が。認知症は、確か、過去の出来事を、特に最近のことを覚えていないという記憶の欠陥症状が出るという風に理解していました。ゴルフに行くのに、ノコギリや斧を持って行った訳でもないし、ゴルフボールの代わりに、野球のボールを持って行った訳でもない。財布を忘れたのは確かですが、財布が必要になるのは、家を出た後の、ゴルフをした後、つまり未来において。現在よりも先の時間において必要とするものを忘れるのは、認知症ではないのではないかなと思いますが、如何でしょうか。

 私が思う認知症気味な人というのは、ゴルフで言えば、スコアを記憶できない、あるいは、どんな風にプレーしたかを記憶できない人ではないかなあと。おっと、ゴルフのことを書くと、もうそこから読まないという方もいるようで、あまり、私が惑溺していることを書き連ねるのは、宜しくありませんので、あまり、書き連ねませんが、昨日食べた食事のことをまあまあ、覚えている方、何を飲んだか、そして誰と食事していたか位を覚えている方なら大丈夫でしょう。

 私が財布を忘れた一因は、事前にチェックすることが多すぎたから、と思っております。ゴルフの場合も同様でしょ、checkpointが多いと、上手く行かないものですから。

 さて、昨晩は、4年ぶりくらいでしょうか、2005年の愛知万博の仕事で知り合った方々と、銀座で一献。私を除いて、皆博覧会協会に会社から出向していた方(あるいは退職して)でしたが、一人(Aさん)は、大阪出身ですが、何故か愛知県にある日本を代表する自動車メーカーに就職し、後に、動脈硬化治療を専門とした会社の社長に就任。そして会長になり、現在は相談役として、それなりに忙しい日々を。もうお二方はともに東京出身で、一人は私立御三家の高校を出て、赤門、そしてこれも日本を代表する某商社に勤務していた方(Bさん)。もう一方(Cさん)は、都立の名門高校を出て、赤門、そして同じ会社で商社マンとして勤務していた方。世間的に言えば、大変に恵まれた職業人生であったと思われます。公的な部分は傍から見れば、素晴らしい。尤も私的な家庭の話はよくは知りませんので、あくまでも公的な外見だけからすればですが。彼らは所謂団塊の世代で、私とは1世代違う人生の先輩にあたりますので、色々と示唆に富む助言を頂戴できるという、そういう関係であります。

 歳をとると、一様にせっかちになり、そして外食では何をたべるか、また何を飲むかという選択にも時間がかかる訳で、なるべく、事前に食べるものは決めておくのが正解。それぞれが食べたいものを言い出すと、きりがない。なお、老人になると、食が細くなるとも言いますが、いやいや、皆さん、結構しっかりと食べていました。そして、一人を除いて、お酒もしっかりと。色々と最近の生活ぶりを伺いながら、お酒は進むわけですが、この日は、飲み放題付きでしたので、飲まなきゃ損ということで、全国の銘酒から、5種類ほどを。長野、石川、福井、奈良、そして締めに秋田の酒を。

 なお、私は、量は多くは食べませんし、飲めませんが、美味しい料理を、美味しい酒を少々頂けるのが楽しみの一つで、懐は細いけれども、美味しいものには目がない、食べること、飲むことにお金に糸目はあまり付けない。だから、お金が貯まらないのですが、お酒を飲めるBさんとCさんは、あまり銘柄にはこだわらないタイプの方のようで、仲間と飲む時は、一番安い酒を注文するとか。

 でありますが、こだわり熊のモンターニュは、しばし思案しながらも、基本辛口の酒を。銘柄は、「ますみ」、「手取川」、「梵」、「みむろ杉」、「一白水成」。何故、銘柄にこだわるかというのは、色々理由はありますが、まあ、微妙な違いを味わいたいというのもありますし、日本酒はご案内のように、ワインの場合は葡萄の種類の違いで風味が変わるように、元になる米の種類で風味が変わりますので、それもあって、山田錦ばかりを飲むのは芸がないので、知らない品種の酒も味わいたいわけです。家の晩酌では飲めないお酒を店で飲むのが、楽しみなんですね。それと、それぞれの酒をリスペクトするということでしょうか。なんでも良いというのは、酒に対して失礼。女なら誰でもいい、男なら誰でもいい、まあ、そんな野暮はしたくはないということでもありますが。

 で、話題は、かつての万博の話に自然となったのですが、真面目に話すほどでもないのでしょうが、そもそも、現代における万博の意義はなんぞやということです。1970年の大阪万博というのは、堺屋太一、岡本太郎、アームストロングの月の石、という具体的な人の名前が記憶にも残る万博で、6000万人以上が見た万博。2005年の愛知県の万博は、2500万人前後。所謂レガシーとして残っているものがなにかと探すと、大阪万博は、日本を変えたし、日本人の生活のスタイルを変えた万博でしょう。海外旅行者が増えて、海外に移住する人も増えた、そのきっかけが万博。科学の進歩が全面に出た万博でもあります。他方、愛知県の万博は、「自然の叡智」がテーマで、自然との共存、あるいは環境問題に対する国民の関心を増すことになった万博ということでしょう。ただ、物的なレガシーが見当たらない。それはそれでいいのですが、2025年の大阪の万博は、後にあぶく銭を消費する施設(カジノなどからなる総合レジャー施設)になるであろう場所での開催で、知的な、あるいは、芸術的なレガシーが本当に残る万博だろうかと。

 19世紀のロンドンでの国際万博の開始以来、万博は商売に結びついてきたことは否めないのですが、日本の場合は、その傾向(金儲け)が強すぎないかなあとは思うのです。江戸末期の日本初の万博参加(慶応3年、1867年、江戸幕府と薩摩藩・琉球王国の共同参加)の時から、日本の文化の具現化的なもの(陶器、浮世絵)を如何にして売るかということに。詳細は避けますが、ちなみに、福沢諭吉が初めて西欧を訪れるきっかけとなった文久遣欧使節(1862年)がフランスを訪問した時は、ナポレオン三世の時下でしたが、使節団の構成員は、皆武士ですから、商売には疎いし、売り買いという卑しいことはしたくない人間たち。そのような侍たちを間近にみたパリっ子は、「日本人は、なんと高貴な容貌をしているのか」と感嘆したわけです。ところが、明治時代になって参加した時の一行はそんな高貴さはもはや無かったとか。

 日本が万博に出た際の話は、「図書」4月号、新関公子さんの「ウィーン万博に始まったデザインの国家始動ー特異な万博スタイル」にも書かれておりますし、また19世紀末における日本人の国際的な評価というのは、司馬遼太郎と山本七平との対談でも出てきますが、万博の今日的な意義、年金生活者でも考えても良いテーマではないかなあと思っておりす。

 3者三様の、後期高齢者の日々の過ごし方を伺っておりましたが、会食の最後の頃になって、何故モンターニュさんは、毎日のように、「折々の言葉」を書いているのですか、書くことの理由、目的はなんですか。そして、その書いた文章をこれみよがしに送って来るというのはどういうことなんですか、というご下問が。
書く理由の方は比較的スムーズに回答できました。後者の、これみよがしに送りつけるという点については、回答を留保しましたが、確かに、確かにと自らも納得しながら、どう答えたらいいのかなあと少し思案を。これみよがしに書いているという風に捉えている人も少なからずいる、というのは薄々気がついています。気がついていますが、熊ですから、やめられません。目にしたくない人は、来たら直ぐデリートするしかないでしょう。迷惑メールですから。

 特に今年は、大吉ですから、良いことばかりで、そうした良いことにまつわる話をかけば書くほどに、これみよがしに思えるのでしょうね。まさに不徳の致すところであります。ちなみに、司馬遼太郎「八人との対話」の最後に、上智大学の先生でもあった哲学者のアルフォンス・デーケン(1932-2020、肺炎で死亡)さんとの対話(「ユーモアで始めれば」)が掲載されています。

 デーケンさんは、2020年に亡くなっておりますが、ドイツ人で、でもプロテスタントではなく、カトリックの方(イエズス会会員)。彼の書いた本を読んだことがありますが、私はこの方は好きですね。ドイツ人も色々ということですが、どちらかというとフランス人のようなドイツ人かなと。

 ユーモアは「体液」というラテン語から派生した言葉のようですが、私の「折々の言葉」をこれみよがしに捉える方というのは、案外、ユーモアを解せない人ではないのかなあと。デーケンさんは、上智大学の先生時代に、一年間、授業で一度も笑わなかった学生の名簿を作ったようで、その名簿にある多くの学生が、病気になったり、自殺未遂をしたりしたようです。真面目というか、真面目過ぎるのかもしれませんが、冗談を笑えない人もいるのでしょうが、英国風のユーモアであれ、フランス風のエスプリであれ、笑って受け流すことができない人は、ちょっと困るのです。

 これがある意味で私がこれみよがしに書いていると思っている人への部分的回答になりますが、書くことについては、大体次のようなことなんでしょう。
井上ひさしさんが生前述べていたように、私たちは、過去と未来の中間点に存在する者。しかしその存在は限りなく無、ゼロに近い。でも、無でもゼロでもない。その限りにおいて、未来へなんらかのバトンを渡せる存在ですよね。そういうささやかな思いで、日々言葉のバトンを紡いでいる、まあそんなものです。読む人がいれば、私の紡いだ言葉は未来に向かって継承されるでしょう。なお、これみよがしというのは、換言すると、自己主張が強いとか、あるいは、自己顕示力が強いからではないかと言う見方も出来ない訳ではないでしょうが、もしもそうしたものであったら、別の方法でそれを示していたと思いますね。そんなことよりも、私の折々の言葉の中に、くすっと笑えそうな一文でもあれば、まあ、今日も書いた甲斐があったかなあと思うのですが、如何でしょうか。

どうも、失礼します。


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