モンターニュの折々の言葉 384「貴方は、「地道な努力型」か「要領よく一夜漬け型」のどちら?」 [令和5年5月3日]

 朝刊を手にして、ああ、そうか、今日は憲法記念日だったかと。何で今日が休みであったかすら忘れている位に、社会情勢には疎く、関心もなくなっている熊のモンターニュ。社会の動きには関心はないとは言いながらも、中学生向けの英語の問題集を頭から湯気をだして、夜な夜な解いているのですが、今の中学生の英語、難しい。来週から学校で本当に教えられるのか、不安になっています。
 それはさておき、この憲法記念日という祝日、何でお祝いするのかなあと。国民が祝う程におめでたいことなんだろうとは思うけれども、憲法があることがおめでたいのか、それとも、憲法に書かれている内容がおめでたいことなのか、どうなのか。熊社会には憲法などはありません。文字に書かれた規則など一切ありません。本能の赴くままの社会。人間社会は、本能の赴くままでは危ないので、規則を作るのでしょうが、今の日本国憲法は、確か、連合国による占領下で発効された憲法(1946年11月3日公布、1947年5月3日施行)。
 ここをもう少し注意してもらいたいと思うのですが、日本の今の憲法は、国家主権が無い中で施行したということ。日本の国家主権が回復したのは、サンフランシスコ講和条約ですね、1951年9月8日調印、1952年4月28日発効の。いわば、未成年者が本来当事者責任を果たせないのにも関わらずに、契約書を取り交わしたような話、にも似ているのが、今の憲法の「出生」でしょう。仮に、今の憲法をおめでたいといって祝うのが、祭日の意味するところであれば、日本国民がお礼を言うのは、連合国であり、直接的には米国でしょう。日本が再生したのは米国のお陰です、という。そのことを敢えて書かない、話さないのは、やはり恥ずかしいのでしょうね。

 そうした出自の憲法をどう解釈するかは、法理論的に難しい話になるでしょうし、私のように、法律を大学で専門に学んだ者には、語れません。ただ、外務省に入るための試験勉強で、憲法をすこしかじった時に思ったのは、憲法の勉強というのは、憲法に即して、国家(政府)の行動が正しいかどうか、個人の基本的人権は擁護されているのかという、「解釈」が中心で、憲法そのものがいかなるものであるかというような、根本的な問題というか、課題についての学習はなかった気がします。既にあるものをベースとして、現実を解釈するのが法律のようで、なんだかつまらないなあと。ちなみに、日本国憲法では3大原則が謳われていて、基本的人権、国民主権、平和主義がそれです。

 先に、お礼を言わないといけないのは、米国に対してであると述べましたが、この3つの原則は何も目新しいものでもなく、他の国でも似たようなものでしょうが、平和主義がかなり異質というか、異型で、そして、なんといっても、天皇を神からヒトに質的に変えながらも、象徴的地位として確保できたのが一番の特徴。

 こうした憲法が出来たのは、一重に米国のお陰でもあって、それ故に米国に足を向けては眠れない時代は長くつづいてきたわけでしょう。先進国の中で、G7でも良いですが、こういう関係の国は日米だけでしょう。敗戦国であるドイツもイタリアも日米同盟的なパートナーはいません。しいて上げればEUがあるわけです。またはNATOがあるのでしょう。

 話を国家主権にもどしますと、国家主権というのは、ヒトで言えば、自由意志のようなものですが、憲法が生まれた時代の状況からして、当時の日本という国には主権、つまり自由意志はなかった訳(国際法的に見ても)で、自由意志のない憲法というのは、なんなんだろうと思うのです。そうした自由意志のない憲法を後生大事に日本国民は一体全体、なんなんだろうと。

 フランスやカナダ、あるいは、アルジェリア、セネガル、そしてコンゴ民主共和国では国民は、憲法というのは、それほど大事なものだとは思っていない、少なくとも一般市民は。憲法が現状にそぐわないならば、そぐうように改正すれば良いと軽く思っている。憲法を祝う国を私は知らない。憲法そのものよりも、むしろ民主主義精神であるとか、基本的人権という側面から、日々の生活が改善されているように思うけれども、日本という国は、憲法がこうだから、こうなる国でしかないのか、その辺がよくわからない。

 池谷裕二さんが言うように、ヒトは自分のことは知りえないものであるということは、それは、日本人は日本の事が、日本人が知りえないというなんでしょう。その説明として、脳的に言うと、本当の自分=無意識、であるという構図を援用すると、意識されたものとして生まれた憲法は本来の日本の姿、日本人がそうなりたいという姿ではなく、本当の自分であり、そしてなりたいと思っている姿というのは、憲法には現れておらず、無意識のまま残っているということなのかなあと。

 これを日本語的に表現すると、「本音と建前」で、意識=タテマエ、無意識=ホンネとなって、安全保障に絡んでの第9条の改正の話なんかも、日本人が古来から持っている無意識的なホンネが出ている面もあるでしょう。やられたら、やっつけるという。平和論者の改正反対者には反対者なりの平和に固執するホンネもあって、そうした相反するホンネを同時に持っているのが日本人であり、日本という国なんだと、私は思うのです。ホンネは言葉では表現できないという。

 いつも私が困るのは、困るというか、日本人にとっての真善美、あるいは、日本という国の真善美というものを言葉で上手く表現できないもどかしさなんですね。言葉=意識、ですが、日本人はその言葉では表現できない何かを沢山もっている民族(これも時代錯誤的言葉ですが)で、つまり、訳がわからないのです。わからないので、今も時々、司馬遼太郎さんの本を読むのです。昨日から、司馬遼太郎財団編の「「司馬さん」を語る」を読み始めていますが、この本、文句なしに面白い。

 憲法の話は、結論的に言えば、わからないということですが、門下の最大の関心事であります、小中学生の成績を向上させるための話を今日のまとめとして、以下を。学習のスタイルには、毎日コツコツ勉強するタイプと、高い集中力で一気に勝負するタイプがあって、専門的には、分散型と集中型の学習と言われるようです。一般的には、うさぎと亀のお話のように、分散型がベターとされています。この話は、先日池谷裕二さんの本にあったお話、単語40個をどれだけ、記憶として長期保存できるかというメソッドの話にもなるのですが、詰め込み型は短期記憶には良いけれども、長期記憶には適さないこともあり、適度に間隔をおいてやる、分散型が良いようです。

 他方、記憶と睡眠には関係があるようで、質の良い睡眠を習慣的に取ることは記憶にとっても不可欠であると言います。面白いのは、睡眠の効果は、記憶の形成にも影響を与えることの他に、発想力を育むことにも繋がっているということ。勿論、これは全て池谷裕二さんの受け売りです。
 創意工夫に満ちた着想を得るには、王道があるようで、それは、グレアム・ウォーレスの考えのようですが、1.課題に直面する 2.課題を放置することを決断する 3.休止期間を置く 4.解決策をふと思いつくということです。特に大事なのか、3.の休止の期間を置くということ、つまり寝かして置くということですね。
 また、睡眠の効果を情報の記憶のために最大限に利用するには、起床後の朝ではなく、睡眠直前の夜に情報を習得するほうが良いという結果が「レミニセンス現象」として、シカゴ大学のブラウン博士らの研究で明らかになっているようですが、そのためにも、上手に寝ることは大事なんでしょう。
 え!なかなか上手く寝付けないのですか?それは困りましたね。脳が元気なのか、それとも、身体が疲れていないのか、その辺はわかりませんが、私の場合は、身体が疲れていたら、まあ、そこそこ寝られますので、基本は日中よく体を動かすことでしょう。脳を働かせるのは夜にして、朝から夜までは、つまり太陽が昇っている間は、身体中心の生活がベターなんではないかと。親鸞聖人は、よく夢で聖徳太子を見たようですが、聖徳太子は、推古天皇の甥で、今は厩戸王と記載されることが多いようですが、豊聰耳(とよとみみ)皇子とも称され、皇太子摂政として、政治の権力を皇室に取り戻そうとした御仁。一度に10人の話を聞き分けることが出来た方ですが、個人的には、日本の紙幣に一番似合っていた気がします。

 そういえば、朝刊の書籍の広告欄に、小学館発行の本の中に、「英国王室と日本人」が堂々と掲載されていて、たいしたものだなあと。そして、折しも、色々と外野席では五月蝿い声が聞こえてきますが、英国の戴冠式、秋篠宮様と紀子様が天皇皇后両陛下の名代として明日ご出発の予定。今の憲法を祝うというのは、かつての帝国憲法では国体と言われた天皇や皇室を存続できるという喜びを表現することでもありましょうから、あまり、ホンネは出さずに、見守ってあげてもらいたいと、熊モンターニュは思うのです。

 そして、私の場合、学習の仕方としては、要領は良くないし、「地道な努力型」で、これからもやっていくのだろうなと思うのであります。どうも、失礼しました。


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