モンターニュの折々の言葉 367「熊の恩返し」 [令和5年4月15日]

「神は私たちに2つの手を与えてくださった。片方は受け取るためであり、もう片方は与えるためである」

ビリー・グラハム(伝道師)

 日本は、どうも、遠心力や求心力が次第に無くなってきている感じを受けるのですが、如何でしょうか。ベクトルはあるけれども、方向がバラバラで、どこに向かおうとしているのかがよく分からない。

 分からないといえば、陸上自衛隊のヘリが突然レーダーから消えて、海の底に沈んだことも。北朝鮮のなんとか爆弾が来るぞと、アラームが鳴ったと思ったら、どこにその爆弾が落ちたかが分からないのも。緊急事態になっても、対処の仕方がわからないのが今の日本なのかなと。ヘリは空を飛ぶので、航空自衛隊所属かと思っていたら、ヘリ同士の戦闘は想定されていないから、また、海洋ではその戦闘行為はないから、地上戦担当の陸上自衛隊の所管なのか、その辺もわかりませんが。

 わからないと言えば、閣議了解事項だったか、2025年の大阪万博(夢洲ゆめしま)跡地にカジノを含む総合型リゾート(IR)を創設する件もそう。1兆8000億円を要する事業で、2029年の開業の予定とか。東京のゴミ捨て場であった場所が夢の島で、今はそれなりの住宅地になっていますが、発想はそこそこ似ている。年間2000万人の来場を想定しての胸算用。景気のいいはなしといえばそうなんでしょうが、日本人客が7割で、3割が外国からのお客さんとか。カジノを合法的にやらせるということで、博打好きの人のための娯楽施設がカジノ。博打で身を滅ぼした、かつての私の同僚を思うと、諸手を挙げて、賛成とは参りませんが、賛成するのが日本人ということ。

 今ひとつわからないのは、西欧の、例えば、ギリシャ、イタリア、スペイン、あるいは、観光大国的なフランスもそうですが、かの国は、政府が、我が国は観光業こそが生き残るためには欠かせないと言っているのかどうなのかということ。アメリカもしかり。観光は、卑近な言葉で言えば、水商売ですよね。おもてなし産業とも言えるけれど、所詮は、媚を売るサービス商売とも言える。観光地は確かにインバウンドで潤うでしょう。でも、観光地でない場所はどんどんと廃れていく。日本の求心力は全てが金、金、金。金の空洞化が生じるのは資本主義の本能とも言える。

 儲かる人だけが儲ける、儲かる都市だけが儲かるのが今の日本じゃないのかなあと。それで、また、こうしてカジノで儲かる人だけが儲かるような場所ができるというのは、もはや、政治は金しか考えないということなんでしょう。国家が加担する事業であれば、せめて儲かったお金を何に投入するのか、どの項目に支出するかも事前に説明してもらわないと、まさに絵に描いた餅で、取らぬ狸の皮算用ではないのかなと。

 わからない事というと、昨日、高校の同窓生が私の窮状?をみかねて、バイトしない?と、あるバイトをオファーしてきたのですが、これがよくわからない。ご案内のように、私は仕事が嫌いな怠け者の熊。この場合、仕事というのは、お金が目当てのもの。仕事が嫌いで、ぼーと、ああでもないこうでもないと考えるのが好きなモンターニュに、仕事しませんかというのが。生活するための、松竹梅の梅的生活ですが、年金と多少の蓄え、そして人に教えるバイトの収入でなんとかなっている、江戸時代の素浪人のようなモンターニュではありますが、それなりに幸せな日々を過ごしている私に、その幸せな時間をディスターブするかのように、もっと働けとバイトを紹介してくることが。

 こうした事以外にもどうも腑に落ちないことが。たいしたことではないのですが、一つは、昨日、ある人(Aさん)に頼まれて、渋谷まで出向いて、待ち合わせ場所でさる人(Bさん)と会って、しばしコーヒーを飲みながらお話をしたのですが、こういう場合、Bさんが私の飲み物代をまとめて支払うのが常識だったのではないかと思ったのですが、そうではありませんでした。

 お互いが知り合いで、友達同士なら割り勘で、懐具合によってはどちらかが奢ることはあるでしょう。今回は、私は頼まれて、Bさんと会った訳で、大人の社会常識としては、Bさんが私の飲み物代くらいはご馳走するのが当たり前だと思っていたのですが、世知辛い世の中なのか、私は私の分を精算。

 私の話を聞きたいという前提で往復の電車賃を払って、行きたくもない渋谷に行ったのに、待ち合わせた茶店は、水のサービスもない上に、飲み物も一様に高い。高いから美味しいコーヒーかと思ったら、平凡なコーヒー。なんとも踏んだりけったりの茶店。スペースは確かに広いけれども、二度と行きたくない茶店。

 茶店の話はさておき、私が情報を提供する立場で、Bさんはそれを受ける、つまりは享受する立場ですから、交易とまでは行かなくても、情報を得たお礼として、感謝の気持ちの現れとしてお茶くらいはご馳走してもいいのではないかと思うのです。でも、そうではなかった。会って話す目的に齟齬があったかもしれないなあと、でも、なんとなく、腑に落ちない思いに。

 けちの付け始めは、場所にあったのかなあと。渋谷は好かない街。何がそんなに若者を惹きつけるのかさっぱりわからない。五月蝿い街。人が異常な位に多くて、通りから溢れている。私の学生時代の頃の渋谷は、まだ良かった。ある程度の秩序があった。今の渋谷は無法地帯ですな。無法地帯の原因は、欲望に任せた街になっているから。消費することが善であるかの、特に若者の消費につながることならば全て善というか。進化し続けている街とも言えるし、常に普請中とも言える街。

 でも、住む街じゃないでしょ。神経が落ち着かないと感じるのは、おじいさんだからかもしれませんが、街づくりにポリシーなどないような、上から眺めたら、とてつもなくちぐはぐで、バランスの取れていない町並み、中心のない街だなあと思うのです。そういう街に東京のみならず、全国から物見遊山のために多くの若者が集まるだけではなく、多くの外国人も来ているのは、渋谷が魅力的な街だからでしょうが、その渋谷の魅力が私にはわからない。物珍しいものがある、見られる、聞こえる、そして売っているからなのか。

 私にとって、渋谷は確かに学生時代の思い出の場所ではありますが、今のように落ち着きがないと、電車賃を出してまで行きたいとは思わない。疲れるだけの街というのが、年金生活者の私にとっての街となってしまい、同じ秋田の生まれの忠犬ハチ公が可哀想だなあと思って帰った次第でした。

 私は普段、そんなに頭に来ることはないのですが、自分から人にものを頼むことは、極力少ないようにして、ひっそりと生きているので、仮に頼むことになったら、自分の立場は立場として、相手のことをそれなりに考えて、相手が喜びそうな場なり、時間を演出しようと思うのです。ところが、世の中、みんなそういう人だけではないようで、自分の都合に合わせてやっているだけの人も意外に多い。正確には、多いというよりも、そういう人もいることを渋谷で知った訳です。

 私が会ったBさんは、私よりも10以上年齢のいった方で、つまりは後期高齢者でしたが、見た目は若く、元気そう。元気そうなのはいいのですが、飲み物をどうしようかなと思い、何を飲んでいるのですかと訊くと、彼は、何杯飲んでも料金が同じだという、所謂フリードリンクだと。しかし、高校生じゃあるまいし、なんで何杯もジュースやコーヒーをがぶ飲みしないといけないのか分からない。コスパが良いからという訳でももなさそう。フリードリンクではない、普通のコーヒーを頼んで一口飲んで、ああ、これは居酒屋の飲み放題の酒並のものだなと。

 もうその時点で、私は嫌になったのです。せっかく来たのに、渋谷くんだりまで。味わう楽しみが一つ減ったというか、茶店での楽しみの基本的なものが欠如している訳ですから。加えて、年金生活者ですから、コーヒー代は馬鹿にならない。でも、せっかく渋谷で飲むなら、「高級」なコーヒーを飲みたいじゃないですか。高級とは行かなくても、学生時代に通った詩仙堂で女子学生と飲んだ記憶が蘇るような、プルーストの「失われた時を求めて」の場面のような、そんなコーヒーを。

 でも、相手がフリードリンクのジュースやコーヒを飲んでいるのに、私がエスプレッソというのもなんですしね。Bさんが仕事上手な人であるのはなんとなく分かったのですが、あまり、芸術的というか、文化的な人じゃないんだろうなあと。人生では大先輩に当たるのでしょうが、男同士がお茶で盛り上がるには、お互いに何か足りないものがあったのかもしれません。当面、渋谷には何かあっても、出かけないようにしようと思って、帰りは、日本橋で降りて、丸善で本を数冊買って、釈然としないまま帰宅。

 もう一つの腑に落ちないこと。こちらは、遊び友達だと思っていた方(Cさん)の話。Cさんも後期高齢者ですが、気持ちはお若く、見た目も元気そうな方。この世代は皆そうかもしれません。そういえば、前述のBさん方は、元・・大学教授、元・・・大学講師、元・・次長、・・・顧問と、元の肩書が山のように連なっている名刺をくれました。この・・大学というのは、私が知っている方が多く活躍している大学で、なんだか不思議ですねと尋ねると、彼曰く、外部の人間をリクルートする専門の人がいるようですと、教えてくれましたし、・・大学の教授の年収まで暗示的に教えてくれました。

 話がそれまして、失礼しました。で、Cさんとはそれまでも何度も会食をし、ゴルフもしている仲だったのですが、それでも、Cさんがやりたかったことを見抜けなかったのは、私の不徳の致すところというか、観察力の無さなのでしょう。Cさん、私にとっては寝耳に水のような話で、今度の都内の区会議員選挙に出るというではないですか。諸手を挙げて万歳と喜んでいいものやら、猫の手も借りたいでしょうから、応援にボランティアで駆けつけたらいいのものやらと、しばし思案を。

 政治家、上は国会議員、下は区会議員か、町会か村会議員。国民に、都民に、区町村民に選ばれるというのは、それはその人が承認されたことであり、大変に立派なこと、名誉あることなのでしょう。それまでの知見、見識、ありとあらゆる経験を現実の世界で活かすのが政治の世界。というのは、理想で、そんなに綺麗事ですまないのが政治。だと言われています。なんといっても、他人がもっているカードというか、投票権を自分に投じてもらうために、あの手この手を使って、有権者を魅惑しないといけません。俗にいう、セクシーでないといけない。

 後期高齢者、果してセクシーか。セクシーな人もいないわけではないけれども、顔とかスタイルのセクシーさだけでは票は得られないでしょう。顔やスタイルでは、若い者とは競争になりませんので、それに代わるものがないといけない。代わるものはありますね。立派な学歴、経歴が。学者としての業績もあります。見栄えも良いし、私が応援せずとも、当選しそうな感じはします。そして、政治家としてやってみたかったことをやれるのではないかと期待はします。しますが、こういう遅咲きの政治家というのはどうなのかなあと、やはり思案するのです。

 自ら一つの政治団体なるものを起ち上げて、その代表になって、街頭に立って、演説をするというのは、素人にはそう簡単なことでもないでしょう。大学で学生に講義していたから、人前で話すのは得意、というのもあてにならないでしょう。学生は眠っていますから、皆よく聴いているなあと思っていたかもしれませんし、名講義だと自画自賛していたかもしれません。街頭演説はそうではないでしょう。外野は五月蝿いし、知名度のない人の話は聞かないでしょう。政治家は売るものがないといけませんよね、何を売るんでしょうか、Cさんは。夢を売る、まあ、それはそうでしょうが、実現しようとしているのは、予算の執行で不正があるかの吟味を通じての区民主権、中高教育における歴史教育の充実、犯罪発症率の引き下げがマニフェストのようですが、そうしたことの実現を通じて住みやすい区を創るということは、どこまで整合性があるのかは、私には判断がつきかねます。

 私はよくわかりませんが、区民の最大の関心事、課題に真正面から取り組む姿勢がないと、なかなか有権者のハートは掴めないでしょう。抽象論ではなく、具体的な問題と課題を列挙し、それにどう対処するかの処方箋がないと、判断のしようがない。区には区の固有の問題があり、そして東京都全体の、あるいは日本全体の問題も当然あるでしょうが、身近な問題の解決を目指さないと、票は手に入らないのではないのかなあと。

 人柄もいいし、恰幅もいいし、政治家向きかもしれませんが、どのくらい頭を下げることができるか、その辺じゃないのかなあと。講義というか、説教してもそっぽを向くでしょうから、選挙の演説は難しいかもしれません。フランスの大統領選挙ではかつて、地下鉄のチケットが幾らするかも知らない候補者が揶揄されたことがありましたが、ドブ板選挙とも言う日本の選挙。Cさんが庶民の生活をどれだけ知っているのか、私にはわかりませんが、国際政治、中国事情には強くても、また、鉄の専門家ではあっても、普遍的な話し、抽象的な話しよりも、地域性のある、具体的な話がどこまで分かっているかが大事なのではないのかなと。

 今日のまとめというか、今日お話したいと思っていたことを失念しそうでしたので、それを書いて失礼いたします。 私は熊ですから、人が群れ集まる様な場所は苦手。群れ集まる場所というのは、組織。会社もそうですし、役所もそう。場所で言えば、渋谷が典型的。組織人間ではない、熊人間の私ですが、組織よりも、人に惹かれる。勿論、外見というか、蓑は必要で、隠れ蓑としては、会社も役所も悪くはない。できたら、なるべく大きな隠れ蓑の方が良い。大会社の建物や、中央官庁の建物は皆一様に立派で、他を圧倒するような威容を醸しております。でも、私には、こうした威容は、虎の威を借る狐には良いけれども、なんだか「虚仮威し」のように見える。大きくなればなるほど、虚仮威し効果も大きくなる、組織はそんなものだろうと思って眺めております。

 そんな組織にいた私ですが、ある人が組織の上にいたからといっても、それは私にはなんの意味ももたない。肩書は虚仮威し効果はありますが、それだけで、はは!とはならない。それよりも、恩を受けた人には、はは!となる。組織人間は基本的に政治的ですな。政治的人間というのは、権力志向が強い人ということ。

 実は、前述のBさんは、フランスのある組織の日本の実務的な代表の方だったようで、話の内容から、私にその仕事を後任者としてやってもらえないかという打診のために、今回出会いの場を設定した趣きもあったのです。顔としての代表は、私も知っている、世界的にかどうかは別にして、それなりに知名度の高い方。新聞などに、私の履歴書を書く程の。かつて同じ組織にいたのだから、その方を支える仕事をお願いします、という話なんでしょうが、これは私のことを全く理解していないから、そういうデマルシュをしたんだなあと。組織に対する忠誠というのは、組織の幹部に対する忠誠に他ならないでしょうが、そういう論理展開は、熊には通用しないのです。

 熊は、自分で生きるための餌は自分で探して見つけ、なんとか生きています。他人からお情けで餌などもらいたくない、それなりの矜持を持って生きる生き物。偶に、奇特な熊か、あるいは別の生き物に、餌をもらったり、見つけてもらうことがあったら、そうしたことは、記憶に鮮明に残るのが熊の記憶。まさに、渋谷の忠犬ハチ公並に、忘れない訳です。同じ組織にいたというのは非組織的生き物の熊にとっては何の意味もありません。同じ組織にいても何の恩も受けなかった人と、別の組織の人ではあったけれども、沢山の恩を受けた人と、どちらを大事にするかと言えば、私は後者なんですね。

 尤も、私のいう恩というのは、ご馳走してくれたり、ゴルフに招待してくれたとか、あるいは、珍しい土産物をくれた、そんな恩であります。要するに、熊にとっての恩人というのは、プルースト的で、また、カミュ的にですね、記憶に残る得難い思い出となるものであり、時間を与えてくれた人ということであります。そうしたことへのお返しが、この「折々の言葉」であります。


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