これから社会人になる競技ダンス部の後輩たちへ

 先日、出身大学の競技ダンス部の4年生たちが卒部式を終え引退していきました。「いきました」という表現は僕の立場からすると語弊がありますね。「引退してきました」。ようこそ学連OBOGの世界へ。

 彼らが1年生として入部してきてくれた当時、僕は4年生。ギリギリ代が被っている子たちが現役世代でなくなったのですから、1つピリオドを打ったOBとしてなかなかに感慨深いものがあります。

 彼らにはOBとして頭が上がりません。新型コロナウイルス流行という一大災厄に見舞われ、部活の存続が危ぶまれる状況を乗り切ってくれたのですから。おかげで彼らの次に続く後輩たちもたくさん入部してきてくれたことで、コロナ以前と遜色のない盛況を呈しています。

 

 さて、なぜ僕がこんなnoteを書いているのかというと、彼らに感謝を伝えるためです。

 流石に後輩たちの前で長々とOBが演説するという老害極まりないことをするに忍びなく、このnoteにしたためる次第です。(これはこれで老害ですね。ご笑納いただければ幸いです)

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 まずは、卒部・卒業(まだ早い)おめでとうございます。今年卒業できない人は僕と仲間ですね。僕も1年留年しました。経験者として語らせてもらえば、1留はなかなかに社会人のスタートとしてヘビーな戦いです。2留以降はもっとヘビーなものとなるでしょう。お早めの卒業をお勧めします。

 冬全(第68回全日本学生競技ダンス選手権大会)は久しぶりに有観客試合だったこともあり大盛況でした。有観客試合開催に漕ぎつけてくれた連盟委員の皆さん、本当にありがとうございます。

僕も観客として試合を見せていただきました。そこで目にしたものは、

応援し、応援される選手たち
大会の恙ない運営のために尽力する運営委員たち
試合に出れなくとも選手として出場する仲間を応援する部員たち

でした。

 大会を、学生競技ダンスを、何百人という学生たちが一丸となって盛り上げていました。僕が目にしたものは、かつて僕たちの学生競技人生の終焉を華々しく飾ってくれた学生競技ダンス部全体の熱そのものだったのです。

  僕はこれに衝撃を受けました。世界は確実に新型コロナウイルスの影響を受けたはずです。学生の部活動も例外に漏れずその影響を受けたでしょう。事実「部活動自体が禁止された」なんて話も聞きました。

 もちろん、そこから徐々に活動の幅が広がっていったことも認識していました。OBとして練習会に参加したり、合宿にも顔を出したりもできるようになりました。試合も細々と開催はできている。有観客というハードルを残していたものの、活動制約はかなり少なくなったのではないでしょうか。

 しかし、コロナ禍を通して競技ダンスと関わった学生は「人を応援する」という行為にいまいちピンとこないのではないかと僕は考えていました。何しろ大声を出すことを忌み嫌う時代ですから。

 ふたを開けてみれば、現役の学生たちの真摯な応援に会場が満ちている。これがどれほど稀有で、素晴らしいことか。

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  新型コロナウイルスが流行り出してこの方、世界は一変しました。飲食業界や旅行業界が受けた壊滅的打撃、政府の支援金政策や金融機関のゼロ金利融資などは言うまでもないでしょう。

 経済面で打撃を受けた人が多いことは言うまでもなく悲しむべきことですが、それ以外は多くの人が概ね好意的に受け止めているようです。例えばリモートワークが導入され面倒な出社文化がなくなった。例えば飲み会がなくなりウザイ上司からも就業時間外なら解放される。かなり楽ですし、僕もその恩恵に与っています。

 しかし、面倒な人付き合いをしなくて済む!と手を叩いて喜びたいところですが、そうは問屋が卸しません。基本的に物事は二面性を持ち、良いことと悪いことはトレードオフだからです。人付き合いをはじめとして面倒くさいことを回避できるようになったことの対価とは何か?

 答えは色々あるでしょうが、分かりやすいのは人付き合いの裏返し、つまり「人と人のつながり」です。人は他者とのつながりなくしては生きられません。これはきれいごとでも道徳の常套句でもない、厳然たる現実です。人類は遥か昔から、連帯することで生き抜いてきましたから。
 大自然を相手に大した科学技術を持たない原始時代の人類は、皆の力を合わせなければ、子孫を残せなかったはずです。肉体的強度で不利にある人類は集団を形成し数で個の弱さを補う必要がありました。

 我々は、生き抜くために連帯していた個体の子孫なのです。それ以外の個体は淘汰されたはずだから。

 当然我々は、社会性こそ人間社会を生き抜くために必須であるというある種の強迫観念をDNAに刷り込まれています。何かのコミュニティに属し、その一員として認められることが生存条件であると。

 文明が成熟しセーフティーネットが整備されているこの日本では、流石にコミュニティから弾かれた程度で死ぬことはありません。しかし人は他者から存在を承認されることに無上の喜びを感じるようにプログラムされています。この事実は重い。

人の心を癒すのは、人に承認されることでしかありえないのです。

 仕事が上手くいかない時、同僚に励まされることで活力を取り戻す。
悔しくて泣いてしまった時、友人が一緒に泣いてくれる。
告白して、その想いが成就する。

  このような「他者と思いを同じくする」体験を得ることでもたらされるものは、「承認欲求の充足」です。悪い意味合いで使用されることの多い言葉ですが、人を人たらしめることにおいてはこの概念は非常に強力です。祝福こそすれ嫌味のように使われるべきものではありません。

 そして、このような体験を得られるのは「連帯しているコミュニティ」以外ない。

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僕が危ぶんでいたのはまさにそこです。

学生競技ダンス部は連帯する場としての機能を果たせているのか?
大っぴらに応援ができず、そもそも一定の活動制約がある環境で連帯意識は育まれるものなのか?
連帯の体験を得ることなく社会に出てしまう学生もいるのではないか?

 結果は先述した通り、全くの杞憂でした。君たち現役生たちはコロナ禍という制約にも関わらず、競技ダンスを通して連帯していたのです。何百人という学生を内包して、その子たちの承認欲求を満たしうるコミュニティとして在り続けているのです。冬全を観戦しているだけでも、それがよく伝わってきました。

試合に出る選手が、応援に駆け付けた部員にたくさん応援されている。
勝ち上がった選手を仲間が共に喜び、祝福する。
敗退してしまった選手を仲間が共に悲しみ、労わる。
応援してくれている部員に対し、選手たちが礼を述べ、感謝する。

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 4年間を通して試合出場が叶った部員もいれば、それが叶わなかった部員もいる。中にはパートナーシップを組めずに引退してしまった部員もいる。ただでさえ男子学生の入部人数が振るわない競技で、それにコロナ禍が追い打ちをかけたことで、かなりの人数、女子学生がシャドーに出たと認識しています。

 組めるだけでも、試合に出られるだけでも大変な栄誉であるからこそ日々鍛錬を積み重ね、同じ大学の仲間であっても競争相手となり死に物狂いで枠を勝ち取る。

 カップル結成、試合出場が叶わなかった子は内心複雑な心境であったことでしょう。想像力には限界がありますが、かなり辛かったと思います。ダンスが嫌いになってしまった子もいたかもしれない。

 しかし、僕の出身競技ダンス部の話にはなりますが、出場が叶わなかった子も、組めなかった子も、多くが部に残ってくれていました。聞けば「部活動を成り立たせるために残った」というのです。

 彼女たちは胸が張り裂けそうな切なさを克服し、連帯する場を守る道を選びました。逃げようと思えば逃げられたはずです。その選択をしたとしても誰も責めやしない。責められるはずがない。でもそうはしなかった。大舞台に上がる仲間や次に続く後輩のために、連帯する場を守る道を選んだ。

 

 連帯するという行為は安いものではありません。何しろ他者との関わりが連帯の本質ですから、意見の対立や利害・感情の不一致など珍しくもない。時に多大な自己犠牲を強いられます。

 そして連帯の最中に齟齬が生まれたとき、どちらかが自分の思いや要望を飲み込む必要があります。これは口で言うほど簡単ではない。血を吐く思いで耐えることになる。真摯にそのコミュニティに参加していればなおさらです。だからこそ「連帯し、場を守る」ということがそれ自体、何物にも代えがたい尊さを持つのです。 

 結果として、大変な活気を伴い冬全が終わりました。選手の活躍はもちろんですが(君たちのことを忘れているわけじゃないよ)選手以外の役回りを引き受けてくれた部員が踏ん張ってくれていたおかげです。

 脱帽です。なかなかできることではありません。

 

 この先、君たちが迎え入れ、育てた後輩たちは、君たちの見様見真似で先輩となり、後輩を教え、後輩を慈しみ、自分たちや彼らの居場所・連帯ツールとなるべくコミュニティを形成していくでしょう。そして自分たちを守ってくれた君たちの背中を思い出し、困難にあってもめげずに自分たちの後輩を守るでしょう。それは、本当に素晴らしいことなのです。社会人になってそれが身に染みてわかります。

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 僕は学生競技ダンスが大好きです。それはOBとしての愛着以上に、連帯する場として自分を育んでくれたことへの感謝、そして後に続く子たちも同様に育んでくれることへの期待が大きい。

 もちろん、苛烈を極める飲み会(今どうなのかは知りません)等、前時代的で野蛮な性質を帯びていることは否定できません。苦手、もしくは反吐が出るほど嫌い、という人も大勢いると思います。無理もありませんし、これからの時代にあっては特に、深く反省し、変革を促されることもあるでしょう。

 ですが、全体的に学生競技ダンスは学生から新社会人への脱皮に至る道のりとして決して間違いではありません。ほぼ全員が初心者からスタートして、大学の垣根を越えた連帯が可能な点は大きな強みです。社会に出る準備として理想的(言い過ぎかな?)と言えます。

 

 このnoteを、この困難な時代を競技ダンスとともに過ごした卒部生の皆さんに届くと信じて捧げます。学生競技ダンスを次代に託し社会に飛び立たんとする皆さんに。
 学生競技ダンスを守ってくれて、本当にありがとう。

 

君たちが人を認め、人に認められますように。

君たちがたくさんの連帯の場に包まれますように。

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