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「元号+時代」という呼称の違和感についての考察③(完結編)

過去2回にわたって、「元号+時代」という呼び方に感じる違和感について考えてきました。

これまでのnoteの要点としては、

・明治時代
・大正時代
・昭和時代
・平成時代
・令和時代

と並べたときに、
明治時代と大正時代は違和感がないけど、
昭和時代は微妙に違和感を覚え、平成時代はかなりの違和感が、
令和時代はそこまで違和感がない

と感じるのは何に起因するんだろうかという問題提起をしていました。

で、なんとなく自分のなかで答えがわかりつつあるので、完結編としてnoteにまとめました。

どのタイミングで、〇〇時代という呼び方が違和感なく受け入れられるようになるのかと言うと、

単純に、その元号の何年に何が起きたのかを記憶している人がいなくなったときなのではないかと考えます。

現代においては、「大正○年に××が起きた」などと記憶している人がいないので、話題になるときには「大正何年の〜」ではなく、「大正時代の〜」と言わざるを得ないのかなと。

逆に令和は、まだ年数がたっておらず、「令和2年生まれの〜」や「令和2年に起きた〜」というような話されかたをあまりされないので、令和時代と呼称していても違和感がないのではないかなと思いました。

この仮説が正しければ、令和時代という言い方にだんだん違和感を覚えるようになってくるのではないかと思います。

また数年後(数十年後?)にこのnoteを見返して検証できればと思います。

とりとめもないnoteをお読みいただきありがとうございました。

清原

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