見出し画像

教育とはギャップを埋めること?

 さぁ新学期の授業が始まった。
 初っ端から考えさせられることばかりで、この仕事の面白さを実感する。

 勤務校は学力層で行くと中の下~下の上くらいで、今年担当しているクラスはその中でもしんどい部類のクラスである。
 号令。さっそくスマホを見ながら起立する生徒を注意する。着席。前の生徒がおもむろに煎餅を食べて、炭酸ジュースを口に入れる。おいおい。授業始まりましたよ。夏休み終わりましたよ。

 生活リズムが逆転している生徒も多く、いきなり授業をしてもまず頭に入らない。今日はウォーミングアップということで調べ学習。政治経済なので、2023年上半期のニュースで気になったものを3つ取り上げ、概要と取り上げた理由、感想を書かせる。今日に関してはスマホの使用も許可する。
 
 生徒の9割以上は筆記試験のない面接重視の入試を受ける。よって、取り上げるニュースはなるべく自分の進路に関係したものという縛りを入れる。もし、面接で「最近、気になる時事問題は何ですか」ときかれた際に役に立てば儲けものだ。

 さぁ勝負はここから。案の定、全く手が進まない生徒が複数出現する。理由は様々だ。寝る生徒。喋る生徒。じっとすることが苦手ですぐに移動しようとする生徒。いくら調べても興味あるニュースが1つもない。社会への関心がほぼ皆無で書けないという生徒。

 昔は怒鳴りつけたりすることもあったが、逆効果なので今は別のアプローチを採る。「どうしたの?」、「難しかったら質問してね」、「夏休みは何してた?」といった質問からやり取りを重ね、やる気になるための策を考える。
 何に興味があるのか。進路はどこを目指しているのか。オープンキャンパスでどこの大学に行ったのか。どの学部を目指しているのか。そうした話から「例えばこういう検索ワードでやってみたら?」と提案。それなら、とようやく手が動く。そんなことの繰り返し。

 中には難攻不落な生徒もいる。とにかく面倒くさくてやりたくない模様。こちらの様々な提案も全て自分の論理で打ち払っていく。
    「僕は面接なんて意味がないと思ってるんで」
 「ジャンケンで入試突破しようと思ってます」
 半ば冗談、半ば本気でそんな風に反論してくる。

 そんなやり取りから、ふと考える。教育とは現状と社会のギャップを埋める作業のことなのかなと。もっともらしく言うなら自己の相対化とでも言うのだろうか。

 彼は面接に意味がないと思っている。ジャンケンで突破できると考えている。しかし現実はそうではない。とはいえ彼にはそれがわからない。

 このギャップを我々は「論理」というツールで埋めようとする。自分の経験や培ってきた社会的知識を駆使し、論理的に彼の理屈が社会で通用しないことを説明する。
 しかし、そんなものはしょせん架空の話だ。彼の中では今の自分で通用すると考えている。実際、リアルタイムの現実で言うと確かにそうなのだ。
 衣食住は親に保障されているから生活に困ることはない。学校にはほとんど毎日通学しているし、成績はともかく単位も取れている。「学校に通っている」という状態は維持できているから、特に周りの生徒と比べて不利益を被るような事態にはなっていない。実際に困るのは不合格通知が届いてからであって、それまでは彼の中では「通用している」のだ。

 やっかいにも(?)彼はアルバイトに従事している。そして、「通用している」。だから、そんなことでは社会で通用しないよという「論理」も彼には通用しない。

 今後、仮にフリーターになっても彼は特に困らないだろう。最近は時給も高く、20代であればシフトを詰めれば正社員の同級生とそれほど大きな収入差はない。実家暮らしならなおさらだ。
 仮に「後悔」するとすれば、それは結婚しようと思ったとき、子どもを持った時、病気になったとき、身体が若い頃のように動かなくなった時、同級生との給与格差が顕著になった時、などだろう。要するに実際に「困る」と認識する事態になった時だ。そして、それはまだまだ先である。

 現状に困っていない。通用している。という状態を揺さぶり、架空の話にリアリティを持たせ、行動を変えてもらうというのはとにかく難しい。所詮、ヒトに他者は変えられない。
 
 まず「論理」というツールを共有しているとは限らない。こうなったらこうなる⇒こうなってこうなる⇒最終的にこうなる、という「妄想」を「論理」を駆使して想像し、まだ起こっていない未来をリアルに感じ、備えるのが人間社会で大事とされている能力だ。
 これを実現するには「論理的思考力」が必要である。しかし、これを高校教育で育成する万能の手法は確立されていない。正直なところ、入学した段階で個人差が大きく、家庭や地域環境の影響が大きい。
 
 「論理的思考力」が十分に育まれていない中でいくら「正論」をかましても全く響かない。響きようがない。所詮は未来の話など空想に過ぎない。ノストラダムスの大予言に備えて「終活」した人などほとんどいない。それと同じだ。彼らからすれば「正論」など鬱陶しい「説教」か、無根拠な「予言」でしかない。

 では論理的思考力がなければどうしようもないのか。いや、人間にはもう1つ未来をリアルに感じるやり方がある。それは経験だ。

 震災への備えを誰もが十分にやっているわけではない。過去の事例や文献、ニュース映像などから「論理」を駆使してリアリティを感じ、実際に防災グッズを備蓄する人もいるが、そこにリアリティを感じず、災害が起きてから慌てるのもまた人間だ。
   しかし、一度、大きな震災を経験している人は「論理」の力を借りなくとも、未来の話をリアルに感じることができる。時空を超えて今と未来を同一に実感する方法は論理だけでは決してない。だから、論理の発達が不十分な生徒には「疑似体験」からアプローチする方が有効ではないかと考えている。

 何とかやる気になってもらおうと、これまでの教師生活で様々な取り組みを行ってきたが、今日の彼とのやり取りから、結局、やろうとしていたのは「現状と社会のギャップ」を「論理」と「疑似体験」というアプローチで埋めようとしていたのかなと気付いた。
 
 教育は本当に正解がない。だからマニュアル化ができない。世に聞かれる解決策はほとんどが自らが「通用してきた」経験に基づく1つの方法でしかない。そして、そのほとんどが「論理的思考力」と「向上心」があるということを前提としたものばかりである。教育を語る人はほとんどが社会的成功者なので必然的にそうなるのだろう。

 学校によってはもはや「論理」、「疑似体験」どころではなく、「強制」や「洗脳」に近いものによって行動を引き出すしかない現場もあるのだろう。日本では95%の子どもが高校に進む。そして、小中学校と違い、「偏差値」によって輪切りされ、分散し、濃縮される。
 それを1つの「学習指導要領」で管理することにそもそも無理があるし、「最新の教育」などというものは、ほとんどが論理的思考力の高い大人が考えた論理的思考力の高い子どもに向けたものばかりである。
 多様な現実を直視し、「論理」以外のアプローチにも目の向けた柔軟な教育政策を文科省には期待したい。

     それはそうと彼に対して何ができるだろう。実際に「困る」前に未来を今に引き寄せるアプローチは何だろう。とりあえず地道に思い付くことをやり続けるしか今は出てこない。さぁ頑張ろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?