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2024年問題にみる建前のレトリック

 「和を以て貴しとなす」
 1400年以上も昔の言葉なのに、日本社会の根幹をこれほど端的かつ見事に表現したものが他にあるだろうか。
  
 十七条の憲法ができた当初から日本社会はそうだったのか。それとも聖徳太子が敷いたレールを今なお日本人は歩み続けているのか。どちらにしても聖徳太子とはとんでもない人物なんだろう。

 「和を貴し」とはつまるところ、争わない、喧嘩しない、揉めない、ということを最優先にせよということだと思う。

 幸か不幸か、未だに日本社会は「争わないこと」を最優先に組織や法が運用される独自の文化を保っている。「嘘も方便」、「本音と建前」、「空気を読む」といった異国の人々には理解しがたい風習も、全て「揉めないこと」を目的とした手段であると解釈すれば理解しやすいのではないだろうか。

 どちらが正義でどちらが悪か。はっきり言って日本人にとってはさほど重要ではない。そんなことより「争わない」ことの方が遥かに優先順位が上なのだ。
 
 だから、会議などにおいて侃侃諤諤に議論することは好まれない。それよりも事前に根回しをし、反対意見が出ないよう下工作した上で無風で会議が終わることが望まれる。後腐れのない進行こそが大切であり、それができる人間が大人の社会人として評価される。
 一方、会議本番でいくら本質的で真っ当な意見を言ったとしても「空気を読めない奴」というレッテルを貼られるだけで、評価の対象にはならない。

 また、アメリカのような訴訟社会と異なり、日本では裁判すること自体が避けられる傾向にある。揉めること自体を忌避するため、どちらかが泣き寝入りするか、せいぜい裁判手前の和解で解決することが望まれる。裁判で勝ったところで、「裁判までいった奴」、「トラブルメーカー」というレッテルを貼られるだけだ。

 したがって、日本社会において「内部告発」なんてものはとんでもない悪行である。正義を貫くことよりも「争わない」ことの方が優先順位が上だという最低限の常識もわきまえていない奴ということになる。

 こうした社会において「イジメてもいい奴」に認定されたら悲惨である。なぜなら誰もそいつを助けることができないからだ。そいつをイジメることを皆が暗黙に了承し、楽しんでいるのをなぜお前は邪魔をするのだ。空気が読めないのか。和を乱すのか。だったら次はお前をイジめてやるという流れになってしまう。あくまで正義よりも和の方が貴いのだ。

 一方、戦後に行われたGHQによる三大改革(農地改革、財閥解体、労働三法)などは、互いに武器を持って主張をぶつけ合い、抑制と均衡によって落としどころを探るという欧米文化をよく表しているように思う。

 使用者と労働者は対等ではないので、労働者にスト権などの「武器」を与え、それをバックにお互いに主張をぶつけ合い妥結する。GHQはきっとそんなイメージで労働者の地位が向上していくと思っていたのだろうが、日本に導入されると大概のものは「和を以て貴しとなす」化される。結局は企業別という謎の組合が組織され、根回しか泣き寝入りで運用されるのだ。今や組合すら存在しない会社も多い。

 私は別にそんな日本文化が嫌いなわけではない。むしろ、個人の幸福追求ばかりを優先する社会より全然いいと思う。でもそこはバランスが必要で、時には行き過ぎではないかと思うこともある。無論、イジメなどは論外だ。

 特に気になるのが、「建前」を巧み活用して、問題化すべきことが問題化されないケースだ。今回はその例として「2024年問題」につながる「建前のレトリック」について考えてみたい。

 「金の卵」という言葉がある。1955~76年まで国を挙げて実施された地方からの集団就職者を指す言葉だ。
 彼らは主に中卒者で高度成長期における低賃金、重労働の単純労働者として期待され、同じような境遇で各地から集まった人々が励まし合いながら勤労に努め、高度成長の土台を支えたというイメージが語感としてある。
 
 今なお、「昭和のノスタルジー」として美談のように語られがちであるが、一方で、その内実たるや酷い労働環境だったことがようやく取り上げられるようになってきた。

 そもそも「金の卵」なんて言葉は使用者側からしか出てこないものだ。普通に読んでも意味としては「将来の金のなる木」だ。そんな露骨な使用者側の言葉が流行語になったり、美談になったりすること自体、考えようによっては恐ろしい国である。

 今となっては都市部で進学率が上がったことによる単純労働者の不足と、地方からの口減らしがウィンウィンの関係になって生まれた現象とまとめることができるが、そんな言い方は対立を生むだけだ。

 それよりも「金の卵」という美しい?言葉にすることで、当人含むみんながハッピー(風)になり、様々な矛盾を覆い隠すことができる。
 実態は終身雇用も適用されず、キャリアも蓄積されない期限付きの単純労働者で、知識集約型社会への移行とともに使い捨てにされたのだとしても、「俺たちが(彼らが)日本の高度成長を支えたんだ」という物語を共有することで黙らせることができる。

 ことさらに彼らの不遇を訴えても「和」を最優先にする社会においてまともに取り上げられる可能性は低い。
 
「せっかくお互いに美談としてまとまってるのに「争い」の火種を作ってどうするの」

 それが「日本」という国の本音なんだと思う。別にそれは仕方ない。

 ただ、そうした実態を集団就職の時代に生まれてもいない私のような世代が知った時に浮かんだのは「要は技能実習生じゃん」ということだ。
 
 高学歴化が進み、低賃金の単純労働者が不足する。
 本来ならそこで単純労働者の待遇を良くすればよい。
 しかし、人件費の高騰は企業にとっては競争力の低下を招くし、消費者にとっては物価の上昇を招く。
 となると、自分は進学して高給取りになり、他人は進学せず単純労働者になってもらった方が都合がいい。
 そんな都合のいい存在が地方の中卒者だったのだろう。

 そして、それを刈りつくした後に出てきたのがフリーターなのだろう。フリーターが登場した当初は「会社に縛られない自由な生き方」、「夢を追い続ける若者」というような「あえて選ぶ」という肯定的なイメージであった。

 バブル景気における単純労働者の不足を補う上で彼らは都合よくもてはやされ、バブルが崩壊すると「ふらふら生きてる社会不適合者」のような扱いに様変わりし、使い捨てにされた。

 地方の中卒者や都会の若者という供給源ではまかなえなくなり、次のターゲットは発展途上国の若者になった。そこで登場するのが技能実習生である。

 「日本の技術を発展途上国に移転させる」という美しい目的で導入されたが、例によってそれは建前であって起源をたどれば「金の卵」と同じである。都市と地方の関係が「先進国」と「途上国」の関係に置き換わったに過ぎない。

 違いとしては移民を嫌う我が国において外国人を招き入れることは反発を招くが、実に都合のよいことに彼らは最長で3年しか滞在できない。実態は使い捨てであっても建前上は「3年間、日本で学んだ技術で母国の発展に寄与する」ための帰国だ。ここまでくると逆に見事だと思う(もちろん建前である目的を大真面目に実行した素晴らしい経営者もたくさんいるだろうとは思うけど)。

 それでも足りならばと今度は「女性活躍社会」とか「一億総活躍社会」とかいうものまで出てくる。ここでも建前としては「多様性」とか「ジェンダーフリー」とか「女性ならではの観点の導入」といった美しい言葉が並ぶが、女性の正社員比率は男性の半分に過ぎない。
 金の卵や技能実習生ほど露骨ではないが、多くはキャリアを蓄積できない単純かつ不安定雇用であり、真の狙いはそこにあるのだろう。

 さて、そんな風に眺めてみると、今回の「2024年問題」はいよいよ供給源が枯れ果てて観念した、つまり、単純労働者の待遇改善に乗り出したというようにも見えるけれども、実際のところどうなのだろう。

 調べてみても出てくるのは「翌日配達ができなくなる」とか「人件費の高騰で物価が上がる」とか「納期が遅くなる」といった消費者の勝手な都合ばかりだが、逆に言うと「翌日配達」も「物流コストの削減」も”誰か”に低賃金長時間労働を押し付けていたからこそ成立していたことを暗に認めている。
 
 今回はいよいよ”誰か”に押し付けるのを止めようという純粋な動きであると思いたいが、本来、そうした”誰か”にスポットを当てるべきマスメディアは相も変わらず「物価高が庶民の生活を直撃!」みたいな情報ばかりを流すのだろう。

 一市民としては納期や配達の遅れにガタガタ言わず、ゆとりをもって計画的に行動することを心掛けたい。 

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