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世界は残酷。探究は危険思想になりうる。

 この世界は残酷である。
 お釈迦様の言う通り、辛くても生きていかなくちゃいけないし、老いたくなくても老いるし、病気になりたくなくても病気になるし、死にたくなくてもいつかは死ぬ。
 自分の心や身体は思い通りにはいかないし、嫌な奴にも会わないといけないし、欲しいものが手に入らないこともあるし、どんな大切なものでもいつか別れは来る。

 こうした苦しみから逃れるために人類は文明や科学を発達させてきた。お陰様で我々はこうした苦しみから目を背けられる時間が増えた。
 しかし、忘れてはならないのは、あくまで一時しのぎの時間が増えているだけであって、上述の四苦八苦を克服したわけではない。

 幸いにも現在私は衣食住の心配をせずに暮らしている。ミサイルが飛んでくることや、突然銃が乱射されることも心配せずに生きている。しかし、こんな生き方ができているのは80億人の人類の中でも一部に過ぎないし、人類が登場してから700万年かけて発展してきた時代に生まれたからこそ享受できている。

 つまり、世界が残酷であることは何も変わっていない。たまたま「生まれる場所と時代ガチャ」でいいところを引き当てただけだし、それも所詮は一時しのぎに過ぎない。

 生徒にはよく「当たり前じゃないことを当たり前と勘違いすると、それは当たり前でなくなる」という話をする。
 例えば、毎朝、親御さんが朝ご飯を作ってくれている。これは当たり前でもなんでもない。でもこれを勘違いして「親が朝ご飯を作るなんて当たり前だ!」と親御さんに言ったらどうなるか。
 きっと次の日から作ってくれなくなるだろう。だから「当たり前」に対する感謝を決して忘れないようにしよう。でも人間はすぐに忘れてしまう。そのために行事がある。誕生日、母の日、父の日、お正月、なんでもいいけど、行事をきっかけに「当たり前が当たり前でないことを確認」し、「感謝」するタイミングをつくろう。
 その意味で私は行事を結構大切に思っている。

 さて、先日、「探究学習」に関する研修会があった。
 学習指導要領が改訂され、「総合的な探究の時間」が導入され、世界史や日本史は「世界史探究」、「日本史探究」に変わるなど、教育界は今「探究」の文字が躍っている。

 一言に「探究」といっても、その「宗派」は様々なのだが、その多くは結局のところ「アンチ詰め込み」の域を出ない。要するに「ゆとり」が名前を変えただけといったところだ。

・生徒を観察し、生徒に応じた活動を考える
・既存のワークブックに従わせるのではない
・成果を出すことが最大の目的ではない
・試行錯誤や泥臭くもがいた跡があれば 「結果がでませんでした」「わかりませんでした」でも良い
・「褒められたい」だけでなく「知りたい」
・生徒間、生徒と教員との対話を重視し、“学習者”として対等に語り合う

 探究活動はセットで「主体性」が重視される。この言葉も考え出すと非常に奥が深く、簡単に使っていい言葉ではないと思うのだが、こうした研修会や日常で使われる意味合いは「自主性」とか「生徒発信」程度の意味である。

 もう一度言う。世界が残酷であることは何も変わっていない。たまたま「生まれる場所と時代ガチャ」でいいところを引き当てただけだし、それも所詮は一時しのぎに過ぎない。

 今の平和なんて吹けば飛ぶようなもので、油断すると瞬く間に残酷な世界に突き落とされる。ここに至るまでの700万年、いや35億年の歩みに感謝し、この状態を維持、発展させることが全てにおける土台であり大前提だ。

 「当たり前じゃないことを当たり前と勘違いすると、それは当たり前でなくなる」

 全ての人間が「ありのままの自分」でいられるほど、世界は優しくできていない。全ての人間が自己完結、自己満足に浸っていられるほど、世界は優しくできていない。サピエンスは群れることで残酷な世界を生き延びてきた種族である。

 上記の研修会の文言は見た目としては美しいのかもしれない。しかし、教師は「教える」ことから逃げてはいけない。「教える」という「傲慢さ」と向き合い、自己研鑽を怠ってはならない。その厳しさから逃げて「綺麗事」に流されてはいけない。子どもたちに自己責任を押し付けてはならない。

 最近は、もはや探究は人類全体の持続可能な繁栄にとって「危険思想」なのではないかとさえ思えてくる。「詰め込み」が良くないことなのに異論はないが、それは教師の力量の問題であって、力のある教師で「詰め込み」をしている人なんて見たことがない。

  探究とかアクティブラーニングとか言い出すようになってからまるで「詰め込み」が悪なのではなく「教えること」自体が悪かのような風潮が出てきている。

 「ゆとり」という言葉はいかにも緩そうな、怠けそうな語感があるので、揺り戻しが早かった。探究も行き詰って揺り戻しがあると思うが、「ゆとり」はダメだ!は言いやすくても、「探究することは良くない!」とは言いにくい。探究すること自体は良いことだから。
 だから、揺り戻しが遅れて意外と延命するかもしれない。

 一教員として身の振り方が凄く難しくなってきた。

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