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中華統一と天下統一

 歴史の授業をしていると、同じ言葉なのにその内実が違うため、生徒が混乱してしまうという現象はよく見られる。
 「皇帝」という言葉はその最たるもので、帝政ローマのトップに中国の君主たる「皇帝」という訳語を当てたのは痛恨のミスではないかと、授業で触れる度に感じる。特に「神聖ローマ帝国」を理解する上で、「皇帝」という訳語は理解を妨げる邪魔なものですらある。

 皇帝と言えば始皇帝がスタートなのだが、彼についてはもう1つ誤解を生じさせる言葉ある。それは「統一」だ。

 豊臣秀吉による「天下統一」。
 徳川家康が関ケ原で勝利して「天下統一」を成し遂げた。

 という使われ方をする一方で、始皇帝が中国を「統一」したという言い方もする。どちらも同じ言葉なので同じようなものをイメージする。そして、秀吉や家康の文脈で使う「統一」の方がベースにあるので、始皇帝による「統一」もそちらのイメージに引っ張られてしまう。

 しかし、両者の「統一」は意味が全く異なる。
 秀吉や家康の天下統一は「日本列島の全ての地方勢力が彼らに逆らわないことを約束した」という程度のことだ。だから、「天下統一」したはずなのに、仙台には伊達家がいるし、山口には毛利家がいるし、鹿児島には島津家がいて、それぞれ偉そうにしている。彼らは自分の領地を持ち、その領地内の法律や制度は彼らが独自に定めることができる。
 
 始皇帝がやったとされることはそんなヌルいことではない。韓、魏、趙、斉、燕、楚という六国を滅ぼし、自分たちの部下を役人として派遣して統治させたのだ。簡単に言うと、関ヶ原から明治維新(廃藩置県)を一気にやったということになる。

 文字、通貨、車輪の幅、重さや長さの単位、考え方といった日常生活にかかわることまで秦と同じものを全国に強制させた。仮に日本がロシアに占領されたとしよう。明日から首相はロシアの役人、文字はキリル文字、通貨はルーブル、重さはプードを使え、政府が認めない書籍は全て焼却だ、なんて言われたら、とてつもないストレスだろう。アイデンティティを根本から否定するようなものだ。いつか反乱が起こるに決まっている。

 統一とは「1つに統べる」と書くので、本来的には始皇帝の統一こそを統一と呼ぶべきで、秀吉や家康の事業を統一と呼ぶのは違和感がある。ただ、今更なじみ深い「天下統一」を変えるのも難しいので、むしろ始皇帝の統一を「天下併合」とでも呼べば実情に近づくような気もする。

 さて、興味深いのは凄まじい反発が容易に想像つくにもかかわらず、そんな無茶を六国に強制した始皇帝のモチベーションである。
 国力を屈服させるのと、アイデンティティを屈服させるのとでは抵抗の度合いが全く異なる。合理的に考えればある程度征服民の心情にも配慮しながらゆっくりと支配を進める方がコストもかからないだろう。

 何が彼をそこまで突き動かしたのか。漫画のキングダムは「戦争なくすためにあえてやるんだ!」という話なのだが、当然それは物語であって、彼の行動からそんな善人の要素は見当たらない(キングダムは大好きです)。

 今年の2年生から「世界史B」が「世界史探究」に変わった。教科書も微妙に変わって実に教えにくいところもあるが、せっかくなので「始皇帝を突き動かしたもの」を彼の生い立ちや考え方などから「探究」させるのも悪くない。でも、そんなことをしていたら模試の範囲は到底間に合いそうになくなった。さてさて、どうしたものだろう。

 




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