断水騒動
「水が出ない!!どうなっとるんだ!!!」
「…え?」
金曜の朝、自宅の家事を済ませて親の住むマンションに行くと、ドアを開けた瞬間に怒鳴り声が飛び掛かってきた。いきなり浴びせられた攻撃的な声に若干ひるみながら、とりあえず気の抜けた返事をしたのだが。
「何やっとるんだ!こんなんじゃ便所もいけんし手も洗えんわ!!」
神経質な母親は、予定外・予想外の出来事を嫌う。どう考えても、水が止まったのは私のせいではないのだが、突然のハプニングに怒りが収まらないらしく…私に当たり散らしている。
「断水は昨日って話だったと思うけど…ちょっと調べてくるね」
「ふん!!早くしろ!!」
…そもそも、二日前から母親の機嫌はずいぶん悪かった。
昨日、何の前触れもなくいきなり断水が敢行されることになったのだが、その連絡が前日だったためかなり怒りを撒き散らしていたのだ。
―――普通一週間前に知らせるものだろうが!!
―――水が出ないならその間じいさんの便所はどうするんだ!
―――ただでさえ一時間おきに15分も入りやがるのに!
―――マンションに言って今すぐやめさせろ!!
行政の決定が、たった一人のばあさんの訴えで翻るはずがない。
偉そうに睨み付ける母親の前で電話をかけ、どうにかなりませんかと叶うはずもない要望を伝え、無理ですと言われてそうですよねと電話を切り、どうにもならないことを母親に報告し、また電話をかけさせられて、ブチ切れた母親にスマホを渡し、丸め込まれて怒りが収まらない母親がスマホを床に投げつけ保護シールにひびが入り、下の階の人が心配してピンポンを鳴らし、涙ながらに赤の他人に娘の無能を語ったのち断水困りますねえで何とか落ち着いたのに、一日たたずに再燃とか勘弁してほしい……。
「お前がやめさせんからこうなったんだわ!!マンション中に詫びてまわれ!!」
靴を履く私に追撃が飛んでくる。もたもたしていたらますます私の神経がごっそり削られる。
返事を返さず玄関を出たが…戻ったら返事もできないクソ人間と言われる事必至だ。ああ、毎度のことながら頭痛い……。
げっそりした気分でマンションの一階に行くと、二階のお姉さんと四階の奥さんがいた。二人とも話はしていない、なんとなくけん制し合っているように見える…。おそらく断水があったから、下まで来て様子を伺っているのだろう。
「あの、水止まってませんか?」
お二人の顔を見ながら、声をかけてみる。
「ええ、そうなんです、聞いてないですよね?」
「全部止まってるんでしょうかねえ?朝一は使えてたのに」
「洗濯途中で止まっちゃって……」
「お風呂もトイレもぜんぶでないんです」
「ほっといてもいずれ出ますかねえ?」
おそらく、自分から話しかけるつもりはないが、話しかけられるのを心待ちにしていたのだろう。ほっとした表情で、色々と不安を口にしている。
「どこにも連絡の紙が貼ってないですね…」
「どうしたらいいんでしょう……?」
「誰に言えばいいのか……?」
このマンションは賃貸で、自治会が存在していない。町内会のようなものはなく、基本的にどんな人が住んでいるかもお互い知らないし、何か起きた時に頼れるような管理人もいない。
二人の住人は私に質問するばかりで、どうしようというだけで…何もしようとはしない。
どう見ても、私が動くのを待っているようにしか思えない。
「建物の管理会社に電話してみましょうか……」
エントランスには、マンションの管理会社からのお知らせがいくつか貼ってある。ゴミ出しルールについて、騒音に気を付けるようお願い、管理会社の名前変更のお知らせ。
連絡先が携帯番号になっているので、かけてみるが…繋がらない。
「…電話繋がらないですね」
「そんな!!困ります!!」
「なんでこういうとき連絡つかないんでしょうね、信じられない…」
緊急時に連絡がつかないのは問題だが、今一番重要なのは水が出ない原因と今後水は出るようになるのか、いつ水が出るのかという事だ。管理会社に対する文句を言っている時ではない。
「水出ませんよね、何か知ってます?」
「あ、今こちらの方が電話したけど繋がらなくて!!」
「つながらない?そんな事じゃ困るんだよ!!」
「断水の連絡は昨日でしたよね?急だったから困ったのに、今日もこんな事になるなんて…」
別の階の人がさらに二人増え、騒がしくなってきた。
私は自宅の方で町内会に入っているのだが、何か問題が起きた時は、町内会長に連絡をする事になっている。基本的に、連絡を受けた町内会長は市役所に相談/問い合わせをし、速やかに回覧板を回す。
町内会長を何度かやっているので、トラブルがあった際にどういった対応をすればいいのか、ある程度知識はある。断水などは事前の役所への届け出が必要となっていて、工事業者や断水の期間など市役所は認知しているはずであり、もし何も知らないのであれば水道管の異常などの発生の可能性がある。
いずれにせよ、マンションの管理会社と連絡がつかない以上、市役所に問い合わせるしかないと思われる。
「市役所に連絡を…ちょっとパソコンで問い合わせてきます」
「市役所?マンションの事なのに?」
「設備の事だから水道局に言った方が良いんじゃ?」
「警察じゃないの?」
冷たいようだが、日ごろ親しくしているわけでもなく名前もわからないような人たちの不安を解消するために尽力する気力はない。私は人だかりが好きではないし、無駄に会話を続けたいとは思わないし、何よりこのマンションの住人ではないのだ。
ざわつく人たちを残し、部屋に戻ってパソコンをひらいて市役所のHPを確かめる。母親が毎日見ているテレビに夢中になっている隙にすべてを終えてしまいたい。番組が終わるまであと30分、間に合うかな……。
水道工事の日程がPDFになっていたので確認すると、とある水道業者が昨日この辺りの断水を行っていたことがわかった。何か問題がありましたらこちらに連絡を下さいとあるので、遠慮なく電話で問い合わせをしてみる。
「今近くで作業中のものがおりますので、すぐ現場に向かいますね」
ものの五分で業者さんがやってきた。事のあらましを説明すると、昨日の断水を担当していたのは別業者だという事が判明した。しかし同業者という事で、点検と担当業者への連絡をしていただけるらしい。なんという頼りになる企業なんだ。今後は水道関連で困ったらここに相談しよう、そうだついでに下水引き込み工事のお願いもできないかな……。
「お調べして原因がわかり次第また伺いますので、今しばらくご不便をおかけしますがお待ちください」
「わかりました…あの、他の住民の皆さんも多分困ってると思うので…」
「ええ、今他の者が各戸に説明に向かっていますのでご安心ください」
頼もしいお兄さんにおまかせし、待つこと五分。
「どうもこのたびはご迷惑をおかけいたしました。もう水道は復旧しておりますので、ご確認して頂いて宜しいですか」
先ほどのお兄さんとは違う人が来て、頭を下げている。昨日の担当業者らしい。
「あ、ちょっと待ってください、見てきます・・・あ、出ました!」
どうやら昨日断水した後、集合貯水の元栓を締めたまま解放するのを忘れてしまったようで、タンク内がすっからかんになり水が出なくなったらしい。最終確認とかしないのかなあと少々呆れつつも、原因が判明して問題が解決したので…まあ、よしとする。
「申し訳ございませんでした…また何かありましたら、いつでもご連絡ください」
「ありがとうございます、お手数かけました」
「なんだ、直ったのか!」
「うん、もう普通に使えるからね」
名刺をいただき、母親の機嫌も治り、良かった良かったと胸をなでおろしたわけだが。
「あ、こんにちは」
「この前大変でしたね」
「あなたが解決してくれたと聞きました、ありがとうね」
やけにこう、すれ違う住民の皆さんから、声をかけられるようになった。
「あなた頼りになるわねえ、どちらにお住まいなんですか?私305なんですけど」
「いざという時に頼れる方がいると安心ですね、私は201号室の…」
「この前断水大変でしたね、うちは一階なんですけど、おたく何階?水届きました?」
やたら…どの部屋に住んでいるのかを、聞かれるようになったような、気がする。
皆さんニコニコしながら声をかけてくるけど、私はこのマンションの便利屋になるつもりは、ない。
「はは、私ここの住人じゃないんですよ。親が住んでて通ってるだけで」
バッチリ先制しておいたのだが。
電気が止まったと言って訪問され。
ゴミ収集所のふたが壊れたと言って訪問され。
エレベーターの点検日程の変更をするよう依頼され。
「うちの娘なんかで役に立つなら、いつでも来てくださいね~」
やたら他人に低姿勢で媚びる母親の後押しもあり、おかしな方向に話が進んでいく。
「このマンションにも自治会が必要ですね」
「うちは年寄り世帯だから役員は無理なんです」
「頼れる人が会長になってくれると助かります」
どんどん外堀を固められていく。
「ここ市報が届かなくて不満だったんですよ」
「良かった、無料でいろいろやってくれる人がいて」
…私は、めんどくさい親の世話だけでなく、見ず知らずの住人たちのためにも尽力しないといけなくなるのか?
自治会にするには、市役所への届け出もいるし町内会費の徴収も必要だ。市を通さない自治会にするのであったとしても、ここが賃貸である以上マンション所有者に無断で事を起こすことはできない。
マンション管理会社にお伺いをたててみるも電話に出ないので、賃貸仲介会社に連絡して事の次第を伝えたところ。
「ご迷惑をおかけしました」
流石に住人でない人が自治会の代表者になるのはマズイと踏んだらしく、管理会社から電話がかかってきた。
エントランスには、自治会を作ることはできませんという貼り紙が貼られた。
「住人のことバカにしてる…」
「権利ってものがありますよね…」
「断固戦いましょう…」
なにやら、貼り紙を見て血気盛んに物申す人々がいるようだが。
―――こんなマンションやめだやめだ!
先日、エレベーターの不調があり、緊急メンテナンスがあったのだな。
5階に住む母親は、買い物から帰ったらエレベーターが使えなかったことに腹を立て、近年稀に見る大爆発をし…とても収まる気配がない。
曰く、そもそも集合住宅は気に入らなかった、いちいちエレベーターに乗らないと移動できないのが許せない、日当たりも悪いし風通しも悪い、エアコンが全然効かないくせに灯油のストーブが使えないとはどういうことだ、下の階の犬が吠えてうるさい、五階なんてもしベランダから落ちたらどうするんだ、大通りの車の音が気になって眠れない、土が無くて自然のパワーがもらえない、こんな所を選びやがって、もっといい家に住まわせろ、こんなんなら売り払った一戸建ての方がよかった。
おそらく、近々このマンションとはおさらばする事になるだろう。
引っ越しする以外に、母親の暴走を止める手段はないのだ。
引っ越ししなければ、私の精神が持ちそうにないのだ。
どうせここにいても面倒に巻き込まれるだけだし、物件にも思い入れはない。下手に引っ越すと口に出したら、悟られたら、妨害される恐れもある。
……早めに借家を探した方がよさそうだ。
私はエントランスでザワつく住人たちに軽く頭を下げ、エレベーターに乗り込んだのだった。
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