何もやりきれなかったクズが、自己変革を起こす"はずの"自分史(2/3話:社会人になってクズから1回抜けたかな?編)


どこにでもいる、とあるヘタレクズの5万字の物語その2


前回のあらすじですが、2024/06時点で話題の要約システム
Google NotebookLMによると以下の通り。

奥 隆朗氏による自伝的エッセイの冒頭部分であり、彼自身の半生を振り返りながら自己変革の過程を描こうとしていることが伺えます。

「ヘタレでクズ野郎」 と自嘲気味に語る幼少期から青年期にかけては、「おクズ様の50年弱に及ぶ人生」 と表現されているように、努力や忍耐とは無縁の、怠惰で流動的な日々が続きます。

しかし、周囲の人々との出会いや経験を通して、徐々に自己の内面と向き合い始める様子が見て取れます。特に、年齢という数値による先入観を持たれたくない という思いから、これまで公表してこなかった年齢を、 「人のために役立つ存在になりたい」 という新たな目標と共に明らかにした点は、彼の変化と決意を表す象徴的な出来事と言えるでしょう。

そして、読者に向けて 「昭和の世界をお楽しみくださいませ!」 と語りかける言葉には、自身の過去を赤裸々に綴り、共有することで、読者の人生に何らかの影響を与えたいという願いが込められているのかもしれません。

ということでした(めっちゃ手抜き!)

前編を読んでない方は

を御覧ください

さて、それでは続きをいってみましょう!


前回同様の著者近影

ヘタレの人生を変えるある師匠との出会い


「ヘタレ人生を変える出会い」がそこにあった。。。
大げさに書きましたがいったいなにがあったかと言うと
自分の所属する編集部の副編集長に出会ったことです。
なんだ。初日の出会いじゃんみたいな感じですが
副編集長は僕が入社してからの1週間、一切会社にきていませんでした。

その理由については後述するのですが
7つ年上の方で、バシッと企画をつくって編集長を納得させ
毎日数件の取材をバリバリこなし、記事もものすごい勢いで執筆して仕上げる辣腕編集者という感じです。
超かっこよくて、憧れちゃう!!(語彙力なし)そんな感じです。

でも、おかしいぞ。この編集部、そんなに忙しくないはずだし。
周りの諸先輩方は毎日のんびりしてるのになんでこの人だけ忙しいのか?
そんな風に思いつつも、のんびり編集アシスタントをしていたある日

その方に話しかけていただきました。
「実は俺、君の高校の先輩なんだよね。あの甘っちょろい学校からここにきて出会ったのもなにかの縁。俺の弟子になりなよ」といきなり言われたのです。

まじか!超かっこいい方の弟子なんて!高校の先輩なんて!これって運命じゃん!
となりますよね。
はい。ご多分に漏れず、ヘタレなクズ野郎はすっかり浮かれました。
たぶん30cmは空中に浮いていたと思います。
それが地獄のようなムチと、天国に昇るような飴をいただけることになるとは知らずに。。。

では、師匠ができたことで、どのようなことが起きたかをみていくことにしましょう。
まず仕事が忙しくなった。
というのも、師匠が編集部の中で一人だけいそがしかった理由が
副業で様々な仕事を受けていたからでした。

実は、その外資系出版社に移るときに
雑誌の立て直しを依頼されたのが発端でしたが
受けるにあたり副業OKという条件があったそうです。

いまは副業が普通になりましたが25年前の時点では
そこを条件として出すのはなかなか珍しい存在だったと思います
実際に師匠は副業において副編集長業の倍は稼いでいるとおっしゃってました。

当初、師匠は駆け出しの僕のやる気を褒めてくださり
僕も調子にのって仕事を頑張りまくっていたのですが
師匠の本業のお仕事を細かく分けていただいている感じでありました。

気がつけばアルバイトの身であるにもかかわらず
時間内160は使い切り?時間外120時間という状況で月間280-300時間ほど
給与2月目からも35-40万円くらいはいただくことになりました。

ただ、使う時間がないからお金は貯まっていく。
一方でだんだんと師匠から求められる質もあがっていき、
お叱りを受ける回数が増えてストレスも溜まるようになってきます。

そんな状況で半年を迎える頃になると体が異変を起こします。
便通がないのです💩
毎日1回、多い時は2回でる便通が2週間もやってこない!
働き過ぎという側面とストレスが溜まったことで起きた生理現象かと想定されます。
時期はクリスマス🎄が迫ったころでした
実は前編でお伝えした通り、クリスマス🤶の当日は私の誕生日なのです。
その当時の彼女は私のためにクリスマスイブとクリスマスを空けておいてくれたのです。

しかし、イブ当日を迎えても体調は悪いどころかひどくなる有り様。
仕事に行ったものの途中で早退し、家の中でのたうち回って過ごしたんです。
当時の彼女に電話して体調がわるいことや会えないことを謝りつつ。。。

で、翌日になっても治らないので、夕方あたりに薬局にいって。。。
おしりからの対処法を試したところ、、、
わずか15分程度でお腹に纏わる全ての課題は解消されました。
こんなことならはじめ方、ビビらずにやっておけばよかった!
ただ、それだけが後悔として残るクリスマス🎅でした。
その当時の彼女様、本当にすみませんでした!

DALL-E先生作
腹痛で苦しんでいる様子はポリシー違反でNGで
イケメンじゃなくしてほしいと
5回くらい頼んだけどこれで限界?

独立して会社作るけどこない?に乗ってみたら

クリスマスから2ヶ月が過ぎることろに大きな動きがあります。
残念ながら担当していた雑誌の廃刊が決まってしまったのです。
コンシューマ-向けのPC雑誌から新体制になり
IT系のビジネス雑誌になることが決定しました。

当然私も残りたいと思いましたが、働いている時間と比較して貢献度が低いこと(生産性の低さ+師匠のお仕事を受けていたこと)が仇となり、異動を提示されました。

提示されたのは書籍編集部への異動です。
ただ、当時は書籍編集に興味がなく、雑誌の仕事ができないなら、他の出版社に移ってまたアルバイトから開始しよう!そんなふうに考えていたときに、師匠が声をかけてくれました。

「俺、独立して会社作るけどこない?」の一言。
そこまでもたくさん怒られて凹みながらも、毎日のように
ご飯に連れて行ってくれていろいろな話をしてくれた師匠
ついていかないわけがありません。
というわけで、人生で初めての転職を体験することになりました。

といっても、蓋を開けてみると業務委託であり
そこに則った支払い形態なので社会保険などはありません

当の本人、舞い上がり系のおバカですし
そのあたりの仕組みとかよくわかっていないので
「やった社員1号だ! ベンチャーに移ったのだから
いままでよりも給与が減ってもあたりまえだよね!」
みたいな感じでやっています。

ただ、大きく変わったことが一点ありました。
いままでは編集チームのマネジメントメンバーの一人であったことから
直接お金を払う社長にポジションが変わったこと。

師匠(社長)が身銭を切って私に報酬を支払うので
その額は減っても求める仕事のレベルは大幅に上がります。
要領が特に良いわけではなく、学習能力が低めの私であるが故に
その高まった期待に応えられない状態が続くことになります

師匠(社長)もヘタレのマネジメントに心底苦労したのだと思います。
なんとか悔しい思いをさせて奮起させようと
なかなかの厳しい罵倒を浴びせていただいたり
場合によっては鉄拳が飛んでくる状態となりました。

また、立場が人を変えるということに期待したのでしょう。
約1年後にその会社が業務委託として受けている
ITビジネス系機関誌の副編集長をこのヘタレに任すという賭けにでます。

環境として現状の外側につれていって
非連続的な成長を実現することを期待して
この要職を与えていただいたのだと思っています。

私も責任感を持って、やる気を出し頑張るのですが
中身は新卒2年目のコミュ力不足 & 即時対応力の低い人間です。

ついて頂いている先輩編集者のメンバーや
外注先のライターさん・デザイナーさんのマネジメント
そして機関誌発行元のクライアント対応などがうまくいかない状況です。
加えて、これで自分自身の原稿執筆や編集の仕事もあるので
もうそれはもうてんやわんやの地獄祭りの日々!

メンバーの方は自分よりも年上だったので
サポートしてくれて色々と手を尽くしてくれました。
残念ながら私自身の実力ならびに周りへの配慮が全くたりず
クライアントおよびデザイナーさんからのクレームの嵐を浴びることになり
半年で会えなく降板という情けない結果に終わったのです。

かなり厳しい経験でしたが、
その当時は本当に死ぬほど働いたんで
後々にそこを思い出せば大抵のことは辛くない!
そんな精神的な耐久力が身についたことと信じています。
※この時点では、もちろんまだまだクズから脱せてはいません!

なぞ過ぎる写真
パセリが目に入ってきっと苦しんでいる

振り返るとだいぶと病んでいたが、周りに救われる

さてそんなこんなで師匠の元で編集の仕事を続けていましたが
とにかく生産性が低いのに仕事量が多いことで苦難が続きます。
さらに成果物の精度が低くて、企画や原稿の出し戻しが多く
週に2回ぐらいの徹夜を伴いつつ、毎日のように24時まで働く生活が続きます。

ただ、その裏にはちゃんとクズエピソードが!
日々溜まるストレスを発散するために
毎日終電で帰って来るにもかかわらず、飲みにいってたんです。
近所にあるバーに3時ぐらいまで。そりゃ翌日の生産性もあがりませんよ。

そして週末は酒に溺れるようなクズ人間的生活をしてました。
その結果、記憶を何処かにおいてくることもしばしばありましたし
酔っ払ってやべーやつ(反社や半グレでなくてセーフ)にぶつかって殴られて蹴り返してまた殴られるとか深夜ドラマのような展開もあって、荒れた生活を送っておりました。
そしてタバコを40-60本/日吸っていましたね(怖)
振り返ると本当のクズですね。。。

悪循環を起こし続ける仕組み
私の結婚パーティのプレゼン資料
「しくじり先生 オクみたいになるな!」より引用

でもそんなクズでも、本気でいろいろ悩みました。
何回か電車に飛び込み自殺をしようと考えたことはここだけの秘密にしますが。。結果は起きなかったので書いておきます。
そんな時に両親や当時の彼女の姿が思い浮かんで
自分が飛び込み自殺をしたら、一生引きずってしまうような心の傷をつくってしまう、この人たちを悲しませたり、そんな傷を作ってはいけないと思って踏みとどまれました。
だから今があるのですね。そう思うと人との関係って素晴らしいですね。

ただ、その大切な彼女とも別れの時が来ます
私の仕事にばかり時間を割いているが故に2人の時間が全く取れないこと
そして時間を取れた場合でもデート時間が短かったり
急な出来事(師匠からの仕事の指摘でやり直しなど)でドタキャンが起きたりする。
それでいて先に述べたように
ハードワークなのでストレスは貯まる!と言い訳を自分にして
毎晩のようにバーに飲みに行くから非常にたちが悪い。
愛想をつかされて当然の生活です。

後ほどの恋愛編で少し触れようと思いますが
その彼女のことはすごく好きでしたが別れる道をえらぶこととなります。
この別れを選んだ結果、その後なかなか彼女を作れなくなり
恋愛をさまよい、こじらせる世界に突入します。
当時の彼女様、自分が半分病んでいたときに、寄り添っていただきありがとうございました。本当に感謝しても感謝しきれません!

師匠(社長)と決別するための作戦

師匠(社長)に拾われて、出版系の制作会社で働き初めて4年半ほどしたときに、自分の中での転機が訪れます。
ゆっくりかつボロボロながらも少しづつ成長し
業務委託で大手経済雑誌の名を借りて取材させていだけるようになったり
BtoBの広告記事執筆では、ページ単価5-10万円くらいで書かせていたくようになったり
クライアントからは直接お仕事を依頼される(断りましたが)ようになってきました。
師匠(社長)に出会い、厳しく育ててもらったおかげでヘタレクズ脱出の糸口が見えてきた状態です。

一方で師匠は引き続き厳しく、いただく言葉の暴力はエスカレートしていきます。
社長のご友人が交通事故でなくなった際などに
「お前みたいな生きている価値がない人間が生きていて、なんで彼女が死ななきゃならないのか」など言われる状態となりました。
※言われているのは社長配下の中で自分だけでしたので、かわいがっていただいた反面できなかったのが憎かったのだと思います。
そんなこともあって、ここにこのままいたら自分は確実に壊れると思いはじめました。

ただ、ムチだけでなく、あまい飴があったんです。
働き始めて3年ほどたったときに普通に辞めたいと話をしたときに
「本当はお前に期待している。報酬も上げたいと思っていたところだった」と言われて、180万円/年くらいの昇給があったことがありました。責任や業務も当然多くなる状態ですが、それでもモチベーションは上がり、続けることを選びました。
そして更に1年後に再度退職を申し出たときに再び120万円アップの提示を受けました。
その時はそれ以上の責任や業務増加が怖くなったこともあって、「もしそう思ってくれたなら一緒に働いている他の方の報酬を増やしてほしい」とお伝えしましたが、残念ながら叶わなかった状態でした。

そんな飴をもらいながらも、いろいろと将来の描けない日常を過ごしていたので、このままここにいてはイケナイ。抜ける道はないのか?と考えはじめたのです。

考えた末に実施したのが、”絶妙なミス”をして師匠(社長)を怒らせること
社長を怒らせると、罵倒されたあとに「お前もう向いてないから辞めろ」の言葉がほぼ確実に発せられる状態にあったので、そこを狙いに行くわけです。

(おそらく)誰にも迷惑がかからない形でミスを発生させて、師匠(社長)に「もう辞めろ」と言わせるのになにをしたかは思い出せませんが、なにかを意図的にやらかしました。
その結果は想像の通りとなり、社長に辞めろといってもらうことに成功?いたしました。

しかし、そこで狙い通りの顔を見せたらすべてが水の泡。
1回しかないチャンスを逃すことになります。
しっかりと反省して、もうしないと言いつつ「もういい加減、向いていないことを自覚したので辞めるしか道はない」と考えていることを伝えます。
ただ、その場で決めた場合、憤慨される可能性もあったので、早急に結論は出さずにしっかり考えたいと持ち帰ることにしました。

そして翌日に悩んだ挙げ句の辞意を誠心誠意でつたえるとともに、犯したミスと引き換えに1ヶ月間無償で仕事するという条件を提示しました。
その結果、円満?に退職することができました。
ちなみに退職してから20年が経ちますが、いまだにその当時の締め切り直前にひーひーいっている夢をみることがあります。
トラウマという呼び方もあるかもしれませんが、一方でこのようなことがなかったら、一生「俺はまだ本気出してないだけ」と言い続けて落ちぶれていく人生を歩んでいたかもしれません。そう思うと感謝すべき出来事だと思っています!

なぞの朝5時のお台場写真
やさぐれてますね

早朝のお子様からのラブコールで転職先が決まる

師匠(社長)の制作会社を卒業後はコールセンターでアルバイトをはじめます。
理由は高時給で楽そうであったから。。。フリーター的な発想ですね。
あれ?まだクズ思想から抜けてなかった。。。
でも、少し休みたいこともあって、そんな理由で仕事を選びました。

ときは2004年 WindowXPが世に登場。
すぐにブルースクリーンになることのない、エクスペリエンスなOSがコンシューマー向けに提供開始されました。懐かしいなぁ・・・・。
インターネット老人会ってやつですね。

もともとIT系雑誌の編集をやっていこともあって
PC・ネット周りの知識があることで
コールセンターでは結構重宝されました。
すぐに社員になることを打診され
丁重にお断りした記憶があります。

そんなこんなでプランプランな状態で仕事をしていたところ
以前師匠のところにいた際に何度かお仕事を頂いていたDさんから早朝6時のラブコールが・・・
眠い目をこすりつつ、慌てて出てみた所
聞こえてくるのは朝のニュース番組からの音声と子供の声
これは間違い電話だなーと思いつつ1分ぐらい聞いて切りました。
念の為、その日の午後、電話をしてみると。。。
どうやらお子さんが間違えてボタンを押して架電したとのことでした。

世間ばなし的に「師匠のところで頑張ってる?」と聞いていただいたので
「あ、3ヶ月前にやめました!」と伝えると・・・
「ちょうどいい!ちょっと話きいてくれない?」とのお話が
Dさんが次期社長を務める外資系のWebメディア企業で
企画立案と編集ができる人材を探しているとのこと。

・出版は出てしまった本の1文字の校正ミスをずっと気にし続けるは心底いや
・出版が下火になってきたので紙からは抜けたい
・企画営業とはいえ、自分のCANが活かせそう!
・次はWebサービスがいい
と思っていたこともあり、すぐに話を聞きにいきました。

そして、CNET Japanなどを運営するシーネットネットワークスジャパン(現:朝日インタラクティブ 以後、シーネット )に転職が決まったのでした。
小さいころのDさんのお子さん、僕に早朝ラブコールをくれてありがとうございました!

別のAIに作画を頼ってみるが・・・・
なんか違う・・・w

企画営業や事業開発など様々な経験をさせていただくが不義理する2社目

シーネットに入って、任命いただいた職は企画営業のポジションでした。
タイアップ商品に関する営業と、実際に決まったクライアントの広告企画のプランニング、そして実際の記事制作にあたっての編集などが主な仕事です。
当時のシーネットは20人程度のベンチャーで記者としての肩書もいただいてました。
なので取材にいって記事を書きつつ、BtoB商品の場合には
企画商品の売り込みを行うマッチポンプ型営業などで
なんとか予算達成を果たして昇格することができました。

また、その際に一緒に仕事をした方は、
後に上場企業の社長になったUさんや、
アパレル大手にECサービスをバイアウトしたNさんなど。
この方たちと出会って、一緒に売上を作って
会社を大きくするフェーズに関われたことはたいへん貴重な経験です

その後、プロダクトのPdMを初めて任せていただくことになり、
いろいろと挑戦もさせていただきました。
例えば、当時のニュースサイトではまだ珍しかった、
タグを付けて関連情報を表示して回遊性を高める試みなどをやりました。
いまで言えば普通の話だし、AIが記事選定なども勝手にやってくれますが、
当時は過去記事のタグを目視で抽出して付けるという人海戦術が必要でした。
それをひたすらやりつつリニューアルを実施したのです。
しかしリニューアル当日、システムエラーが多発。
実はタグ付けを毎回照合することでシステムに負荷がかかること。
そのためにサイトの表示が圧倒的に遅くなる原因となっており
企画自体が見送りになって涙を流したこともありました。

あとは企画営業部門のマネージャーを任せていただきました。
以前の副編集長に続く、2度目のマネジメント経験です。
ただ、マネジメントのマの字もわからない状態でマネージャーをやっている。
ただただメンバーの方への数字の押しつけと管理をしてやった気になるやつです。
さらには、自分はプレイングマネージャーであること、
成果をだせることに喜びを感じてしまう始末。
俺がやってやる!と、案件を任せないというエラーが発生。
任せていただいたチームを全く活かせない状況に陥るなど、
本当にご迷惑をおかけすることになりました。

さらには入社から2年半で拾ってもらった恩を忘れて、
人生の転機に関わるサービスがしたい!という思い込みが突然湧き出ます。
自分のやりたいことを評価してくれるところを求めて就職活動を開始。
会社のプリンターで転職先へのプレゼン資料出力したり、
それを置き忘れて退社してしまい、
慌てて仲のよい同僚に回収させるなど人の迷惑を顧みない状態でした。
スーパーセルフィッシュの極みですね。

ちなみにこの転職活動をしているうちに、人材エージェントがどのような人なのか、そしていろいろな会社や仕事に関わる人に出会えることに興味を持ち出します。
その結果、50名以上のエージェントにあって100社以上の面接を受けたと記憶していますが、なにがしたかったのかを振り返るとインタビューがしたかったのだと思います。
いろいろな方の話を聞いて、企業の価値観や抱いているビジョンを知りたかった。その当時のWant toと楽しさに突き動かされていたんだろうなと、今になっては思っています。

インタビューの様子を頼んだのだけど
遠近法無視感とかすごい・・・
けど面白いからアップ

人材サービスに関わるが商材の違いに大苦戦

さて、転職活動の結果ですが、最終的には人材では最大手のR社を希望して進めていました。ただ、なぜか2次面接を過ぎた段階で、なかなか進まない状態でとなってしまいました。ほかにも人材企業でいくつかお話をいただく中で、一番熱心だったのがX社出身の役員の方がいるディップさんでした。毎日のように直接お電話をいただいたことから、そこまで言っていただけるなら役に立ちたいと思い、ディップで働くことを決めたのでした。

ディップでは当初はいろいろな企業が参入して、非常に熱い領域であったクローラー型ジョブサイトである「ジョブエンジン」というプロダクトを手掛けたく入社いたしました。
(いまは全自動のAIクローラーが取り込むIndeedが一人勝ちしましたが、当初は各サイトのフォーマットに合わせて取得・表示する和製ジョブクローラーがしのぎを削っておりました)

実際に配属された先はアルバイト求人サイトのサイトプロデュースチームで、Webメディア運営の経験を活かして、PCのリニューアルのプロダクトマネージャーを担当させていただくことになりました。

そしてここでもマネジメントの壁に遭遇し、悩むこととなります。もう3度目なので3度目のうんちゃらとはいかず、2度あることは3度ある状態です。
今回の壁は、既存のエースクラスのメンバーの上につくことで生じた課題でした。私が入ったチームのメンバーとしてついていただいたのは、いままでバイトルのことを誰よりも考えてきた社員の方。

IT系ビジネスニュースサイトのPdMとして培ったことで私が入ってきます。
そして、過去の知見をベースに口を出す。その方からしてみれば「黙っとれ!うっさいわ!」という状況ですよね。

その原因で大きかったのは、商材に対する考え方がずれていること。
アルバイトは脊椎反射(無意識:System1)で動く
「自分の住んでる場所」「使っている駅」「高時給」
多くのユーザーが重視するものに目線がいき
とにかく絞り込めるように設計します。

一方で自分の経験にあったIT系ビジネスニュースサイトは
見出しをみてその記事は自分にとって見る価値があるかなどを思考してから動く、なるべく多様な情報に触れたり、気づきが生まれるように設計する

その違いを頭ではわかっているつもりでも
本当に正しく理解せずに動いていたのです

結果的にリニューアルプロジェクトはうまくいきましたが
要因はほぼすべて既存のエースのメンバーのおかげでした。
結果的に、そのメンバーはマネージャーに昇進
私は降格人事とはならなかったものの
新任マネージャーの下にサブマネージャーとして付くような状況になりました。

そしてここからはその方がマネージャーとしての過去の自分と同じことを再現します。
先にあったプレイングマネージャーであること
成果をだせることに喜びを感じて
私の仕事を奪っていく状態になります

責任のある仕事はすべてその方が担当し
成果の本流でない細かい仕事は僕に任せる
という感じですね

あ、こんな感じでやっていたのか。。。と反省すると共に
いろいとと精神面でのショックを受ける状態となってしまい
原因不明の咳がとまらない状況が続くことになりました
コロナ禍だったら最悪でしたね。。。
周りから総スカンを食う状態だったかと思います。


再び写真に復帰 最初で最後の上場企業社員時代
入社時なのでフレッシュです!?
すぐに咳が止まらなくなりますが

心身共に不調になり早々に戦線離脱しようと思うが上司と役員が救ってくれる

そんな心身ともに不調が続く状況になったので、
半年ほどたった時点で会社をやめようと考えました

そんなときに相談させていただいた?のが
一緒のサービスのマーケティングを担当していたNさんでした。
(後に辣腕マーケター&グルメインスタグラマーのH師匠と呼ばれるようになるとはこのときはいざ知らず)

一緒に会社の帰りにブランコに乗って
「かいしゃどうしようか?」
「やめちゃう?」
「いや、もうちょっとだけ頑張ってみる?」
「そうはいってもね?」

みたいな話をしていました。
(おっさんず アオハルかよ。いやH師匠はこのとき23歳だ)

なお、この時にNさんは新卒3年目でしたが
一緒にご飯に行くと、先輩の素振りをしていただいて
私が若く見えるように振る舞ってくれる素敵な方でした。
ただ、飲み会の時間へのコミットメントが非常に低く
サシ飲みで2時間待たされたこともございました。

そのNさんもH師匠と呼ばれるようになってからは
そんなことは知らぬぞんぜぬ的に
飲食店の方々を大切にし、遅刻をしないできた人物になりました。
いまとなっては良い思い出です。
いまも一緒にお仕事をさせていただいており、本当に長いお付き合いありがとうございます!

あくまでDAll-E先生が描いた世界です
イケメン好きなんですね。。。

さて、話を戻すと、根性のない私はもうだめだ!続けられない!と思って
当時のさばさばした部長の上司(女性)のKさんに相談を試みます。
そこで私はずるい伝え方をするんですよねー。クズならではの。

そのずるい伝え方とは、上司Kさんに対して「ちょっと飲みに行きませんか?」と誘ったこと。
Kさんは飲むのがすきで、当初はよく飲みに行く関係性だったので。
言いにくいことを酒の席で言ってしまえ!というやつです。

そこを見抜いた上司のKさんは
「今のあんたと二人で飲んでも楽しくない」
仕事のことはその上の役員を含めて相談ね。
と、即座にその上司の役員(取締役)のUさんのところに私をつれていき
「おっくん、会社辞めたいくらい悩んでるみたいよ。どうにかしないとね」との発言。
うーん。するどい。そしてUさんはザ・サラリーマンのような方。
メンバーが辞めると、自分の査定が悪くなることがきになることがわかっています。
これが日本の会社の正しいマネジメントか!と気づくわけです。
(ちょっと違うけど)

Uさんに相談した結果ですが
私の特性として仕事の中でリサーチおよび
ツールやテクノロジーに関する示唆出しが得意な点を把握しており
それが活かせる仕事が良いのではないかとの話になりました。
いままで勤めたところはワンマンor外資系だったこともあり
フィットしなければ去るべし的な文化だったので
このときはきちんとした会社ってありがたい!と本当に思いました。

そして取締役のUさんはX社のようなR&Dセンターを作りたい
そこの最初のメンバーになってほしいと
とてもラッキーなミッションをいただくことができました
地獄から一気に天国に昇るようなイメージでしたね。

そしてその後は、業務の半分ほどを
R&Dなのでなにを妄想してもよい
形にできそうならトコトン考える
このような動きをベースに
半分程度の時間を考えて立案することに
あてて良いことになりました。

バズりそうなプロモーションやサービス
ユーザーが面白く使ってくれそうなサービス
集客に繋がりそうなテクノロジー
競合との差異化になるような仕組み
を考えては、取締役Uさんに提案。

もちろん提案は未熟であれば却下されることも多いのですが
そんな未熟な場合でも役員のUさんは一緒に面白がってくれて
思考したり煮詰めるべきポイントを指摘くれるので
素敵なマネジメントすたいるだなと感じたことを覚えております。

1年間ほどの間に、実際にポシャったものを含めて
5つくらいのサービスをリリースしました。
その中の1つのアルバイト動画サービスは
テクノロジー課題を解決したケースでしたが
15年ほどたった今でも形を変えて残っていて嬉しく思っています。

裏をかくサービスで拙速立ち上げに貢献?

その後、2008年にリーマンショックが到来!
R&Dどころではないなという感じになりました。
世の中の人材採用の鈍化が始まり、次のコアとなる新規事業をやらなくてはならないという波が訪れます。

そこで今度は新規事業担当に任命いただき
当時のメンバーとアホなアイデアを含めて
様々な新規事業を提案することになりました。

販促ビジネスだったり、イベント事業、球団経営、葬儀事業進出など。。。
いろいろと提案はしたものの全く通らず。。。
営業人材のアセットを最大限活かす手段として
結局人材ど真ん中ですが不況につよい
ソーシャルワーカー分野(医療・介護領域)で勝負することになりました。

事業を作るにあたっては既存の人材事業が不況のご時世もあって
一刻も新しいビジネスの核をとにかく最短・最速で立ち上げることが求められます!
というわけで、出版時代に培った、徹夜しようが何連勤しようが、絶対に納期に間に合わせる「パワープレイ」を発動!

一緒に働いた企画メンバーSさん(いまはお偉い役員さん)と二人、リリースまでの半年間180連勤・週1程度徹夜という死の行軍を実施します。
※システム開発のパートナーさんも同じような感じだったと思いますが。。。

おかげで一緒に頑張った「ナースではたらこ」は、無理ゲー的なプロジェクトと言われましたが、なんとか間に合いました。
Sさん、ありがとうございます。楽しかったね!(にっこり)

こんなに悲壮感は無いけど、
夜中によくドンキにいった!

ちなみに競合優位性の作り方については
パワープレイ以外では集客施策を奇をてらって頑張ってみました。
最大手企業に資本やクライアントの寡占率なおではまったく叶わないという状況。
隙があるとすれば集客。SEOであればいくらでも入り込む余地がありそうと感じました。

そこで医療機関データベースを購入することを検討。
そのDBを利用して10万件の医療機関情報を網羅!
という裏をかいたPRを実施し、世に出たわけです。
いわゆる墨俣城的な作戦です。裏はしょぼいけど、それっぽく見せるやつですね。

なので、実際にはそこに掲載されているのはただの医療機関情報であり
実際の取引情報はないので「逆指名転職」という、
応募時に目星をつけている医療機関を聞いて
そこに電話をして確認するという怒られそうな手法で開拓を実施。

突破力のある営業部長とそのメンバーの力を借りて目標を達成しつつ、
翌年度に大幅な事業成長させるまでのお手伝いはできました。
当時の営業部の部長とも今でも一緒にお仕事をさせていただいております。感謝!

なお、その後は1年ほどで同じようなやり方をするサイトが多数あらわれて
サービスの初期優位性は失われて、人海戦術で戦うことになるのですが、拙速立ち上げには貢献できたと思っています。

起業に向けて動き出すけど動けない日々

その後、今で言うPdMとしてサービス企画チームを率いながらも
新規事業担当として、あたらしいビジネス提案を繰り返す日々が続きました。
ただ、ディップのT社長に刺さる事業に関してはあげることができずじまいでした。当時のCOOのOさんも応援してくれてはいたものの、どうしても最後が通らない。そんなこんなでちょっと腐って、そろそろ店じまい的な要素をみせてしまっておりました。
いわゆる辞めるといって、なかなか辞めずに周りの関心を惹こうとするやめてやる詐欺ですね。メンヘラちゃんです。クズいです。

そんな最中に、組織編成が変わり、新しく上司になった役員のFさんに担当直入に聞かれました。
「お前、そろそろ辞めどきとか言ってるんだって?」
この問に対して
「はい。なかなかやりたい案が通らないのと、そろそろ自分で事業をやりたいと思ってます。ただ、タイミングを待っている状態です
言い訳をいいます。

そしたらその新しい上司であるFさんは
「お前のやっていることは、同棲中のパートナーに出ていくといって、出ていかないような状態だ。それは失礼きわまりないだろ!」と言い放ちました。

うん。面白い例えをする方だが、言いえて妙だ!
と深くささりました。
そうだった!腐ってないで自分でとっとと事業やってみりゃいいじゃん!
と思って、2011年の期末の2月末を目処として退職することにしたのです。

最終話は独立・起業・そして恋愛編の予定です

決断が先。とはまさにこれですね。
というわけで続きはまた3作目でお会いしましょう!
続編みたい方いらっしゃいましたら、いいね & フォローよろしくお願いいたします!

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