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世界が滞りなく巡ることに絶望していたわたしへ

13歳のとき。

わたしは、わたしがいてもいなくても滞りなく巡る世界に絶望していた。

世界に「わたし」はいらなかった

中学1年生、クラスメイトがまだ慣れない教室と学校に浮き足立つ春、わたしはいじめを受け始めた。
数ヶ月後には不登校になり、家に篭るようになった。

最初の頃は電話をかけてきたり家庭訪問しようとしたり(会わなかったけど)した担任の先生は、1ヶ月もすると何のアクションも取らなくなった。

「1ヶ月以上の欠席が続くと学校は不登校として教育委員会に報告しなきゃいけないから、1ヶ月まではどうにか学校に戻そうとするらしい」

担任がその時なにを思っていたのか、真偽のほどは定かではないが、そんな話を聞いてわたしはひどく落ち込んだ。

「わたしたち友達だもんね」と笑い合っていたクラスメイトからのメールはなくなった。
親がわたしを心配して声をかけてくることもなくなった。

どう接すればいいのか分からなかったのかもしれないし、心配なんてそもそもしてなかったのかもしれない。
「家族なんだから、心配したに決まってるよ」なんて確証のない言葉を信じられるほど、わたしは親からの愛を感じてはいなかった。

誰もわたしに関心を示さなくなった。
わたしに声をかける人も、わたしの前に立つ人も、わたしの隣に座る人もいない。
ただ布団の上と食事の並ぶテーブルの前とトイレと風呂場を行き来する日々を過ごした。

久々に、学校へ行ってみた。
わたしとは目を合わせすらしない担任と面談をした。

部活動に励む生徒たちがグラウンドで声をあげていて、校内にも多くの生徒がいた。皆、楽しそうだった。笑っていた。

歪な笑顔しか作れないわたしはここには居られないな、と思った。

世界にわたしはいらないのだと、いっそいないほうがいいのだと、密かに絶望したのを覚えている。

しばらくして、学校に復帰した。
クラスメイトたちは一瞬どよめいたものの、すぐにわたしという異物が存在する空間に馴染んだ。わたしは異物からクラスメイトのひとりになった。

1人だけ、不登校になる以前のことを謝ってきた女子生徒がいた。彼女にとっては、わたしは少しだけ長く異物だったのかもしれない。

何かが欠けても、世界は滞りなく進む。それが救いにもなる、ということ

世界は、誰かがいなくなったって滞りなく進む。誰かが生まれたって滞りなく進む。
超有名芸能人がいなくなっても、人はまるで食べ終わったごはんのことみたいに、すっかり忘れてしまう。「次のごはんは何かな」なんてウキウキしながら。

それはなんだか冷たくて、寂しいようにも思う。けれど、それが救いになることもあるのだと、今は知っている

一昨年の冬、10年連れ添った愛犬が亡くなった。

明くる日も明くる日も悲しくて寂しくて、またいつか出てきてくれそうで、「アハハ、迷子になっちゃってたよ」って玄関の前でいい子にお座りしてるんじゃないかって思えてしまって、あの硬くなった身体を抱きしめたはずなのに、毛だけがやけに柔らかい、まだあたたかいあの身体を、何度も何度も、何かを願うように撫でたはずなのに、その記憶は今もなお強くこびりついて離れないのに、それでもわたしは、今はもう灰と化したあのわんころが、枕元にいるんじゃないかと、顔をべっとりと舐めて起こしてくるんじゃないかと、そう夢見てしまうのだ。

何も手につかなくなった。
当時はライターのアルバイトをしていたのだけど、仕事中にも勝手に涙が溢れた。平然を装って化粧室に入り、静かに泣いた。

結局その日は体調不良を理由に早退させてもらった。

それからしばらく、無気力な日々が続いた。

誰かと会う日は、それがどんな間柄の人であってもひどく消耗した。
その数時間を笑顔でいる代わりに、そのあとの十数時間はずっと悲しみに支配されていたから。

そんなわたしも、一ヶ月もする頃には日常を取り戻していった。

何かを食べれば味がして、夢に愛犬は出てこなくなって、眠って起きたら朝日はもう昇っていて、犬が登場しない映画なら楽しめるようになった。
誰かが犬の話をしても泣かなくなった。
街中で犬を見かけても鼓動が早くならなくなった。

わたしが日常に戻って来れたのは、わたし以外のすべてが日常のままであったからだと思う。

世界が変わらなかったから、日常が壊れなかったから、わたしは思う存分悲しみに浸れた。
浸りきる一ヶ月を過ごせたから、こうしておおむね問題のない日々を過ごせるようになった。

まるで愛犬が最初からそこにはいなかったような世界は、わたしにとってとても残酷で、そしてとても心強いものだった。

みんな何かを欠いている。それでも世界を進むのは、変わらぬ明日が来るからだ

世界に愛犬の姿はもうない。わたしの中の悲しみは、もうずいぶんと小さくなった。小さくなったけれど、まだ抱えている。
犬が出てくる映画は3秒で泣いてしまうし、特にウェルシュ・コーギーを見かけた時は目の奥がぎゅっとなる。

わたしは日常に戻ってきたけれど、やっぱり何かが欠けたままだ。欠けたのか、それとも足されたのか分からないけど、とにかくあの頃までのわたしではなくなってしまった。

今日すれ違ったあの人も、電車で隣に立ったあの人も、コンビニの店員さんも。
きっと何かを欠いている。そしてその代わり、何かが足されて生きている。

だって、いつだって明日はやってくるから。
何が欠けても、世界を進んでいくしかない。生きるしかない。

あなたが、どうしてもこれ以上は進めないと思った時、進むくらいならここから飛び降りようと思った時。
あなたの代わりに歩みを進められる人で在りたいと強く思う。

わたしがこの道を進めないと嘆いた時、先を行く存在に救われたから。
歩みを止めずにいてくれた人のおかげで、わたしはここに戻って来れたから。

だから今日もまた一歩、一歩と、いつかのあなたのために、いつかのわたしのために、この人生を歩いていくのだ。その歩みが世界を回すのだと信じて。

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cotree advent note に寄せて

こんなとりとめのない、まとまりのないものも、たまにはいいよね。

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