大人だからこそ、「好き」を原動力に学びたい

社会人になってから、学ぶことが増えました。

仕事に役立ちそうなビジネス書を読んだり、先輩がたにお話しを伺ったり、イベントや勉強会に行ってみたり。

特にわたしは教育系の仕事なので、中学・高校でやるような五科目の勉強も未だにしているし、働く人としての知識もきちんとつけねばだし、職場ではプレイヤーである一方マネージャーでもあるので、書籍とにらめっこしながら難しい顔をする日々です。

それらはすべて「必要性」から生まれた学びです。

今の役職で必要とされるスキル。
これからのキャリアのために身につけるべきこと。

そういうことを、日々時間をつくって学んでいます。

けれど、「学び」ってそういうものなのでしょうか

「ただ好きだから」何時間も勉強できた学生時代

高校生の時、ただひらすら勉強が好きでした。

新しい数式。
知らなかった言葉。
他国の文化。

毎日、昨日までの自分の中にはなかった知識を得られて、とにかく幸せで。

もっと知りたい、もっと使えるようになりたいと、学校でも家でも、とにかく勉強をしていました。

数学の教科書は夏には使い切って、秋からは先生が用意してくれた少しレベルの高い参考書をひとり解いていて。
日本史のテストでは「今期の試験範囲でテストには出なかったけど勉強したこと」を裏面いっぱいに書いておおきな花丸をもらって。

学校に着いたらすぐに参考書を広げて、休み時間には前後の授業の予習復習。家に帰ってからも勉強。

クラスメイトから「なんでそんなに勉強してんの?」と聞かれたことがあります。

「楽しいから」

そう答えたら、クラスメイトは怪訝そうな顔をして離れていきました。
たぶんわたしにとっての勉強は、その子にとってのメイクや、ドラマ、ゲームといったものに近かったのだと思います。
そう説明したとしても、きっと彼女は納得しなかったと思うけれど。

とにかく当時のわたしは、誰に言われるでも、何かを目指すでもなく、ただ「好きだから」「楽しいから」というだけの理由で、生活の大半を勉強に捧げていたのです。

日々やるべきことに追われていたら、「好き」なんて忘れてしまう

社会人になって、学生の時とは時間の使い方が大きく変わりました。

これまでは一日中勉強するのが称賛されたけれど、今はそうもいきません。
仕事もあるし、交友関係も広がります。

なにより、自分で自分の生活を成り立たせなくてはいけない。
成り立たせられるだけの対価に見合う価値を、社会や会社に示さなければならない。

「いま、必要なことはなんだろう」
「昇進するにはどうしたらいいだろう」
「この業務をいち早く終わらせなければ」

そんな考えでいっぱいいっぱいになっていると、どんどん「好き」の存在感が薄くなってしまうのです。

だって「好き」って、とても弱いじゃないですか。
あったらもちろん嬉しいしハッピーだけれど、なくたって別に生きていける。「好き」を守ることよりも、生活を維持することや将来のための貯蓄をするほうが、どうしたって優先度は高いのです。

やるべきこと、必要なこと、仕事に活きること。
そういうものにばかり目を向けていたら、「好き」なんて簡単に見えなくなっちゃいます。

だって彼らは、とても照れ屋で奥ゆかしい、引っ込み思案な性格なのだから。

わたしたちは「生きるため」に「生きている」わけではないでしょう?

人はこの世に遊びに来た

という表現が好きです。

生きるために生きているわけではない。
ましてや仕事のため、働くために生きているわけではありません。

遊びに来てるんです。

何かを成し遂げたり、大きなものを遺したり、社会で活躍したりするのはもちろんすごいこと。
でもその陰に、犠牲にされた感情、捨てられたモノがあったら悲しいな、と思うのです。

ただ好きだから、で学びたい。

役立つとか、将来の為とか、今後の日本に必要とか、もういいんじゃないですかね。人生の何かを犠牲にしなくても、それぞれができる範囲で頑張ったら、それで成り立たせられませんか。ダメかな。

わたしは「ただ好きだから」で学びたいです。「ただ好きだから」で時間を使いたいし、「ただ好きだから」で生きていきたい。
好きな瞬間を、好きな人たちと、好きな方法で、一つひとつ積み重ねていきたい。

大人になって必要なことややらなければならないことが増えてきたからこそ、その根本にある「好き」の感情に目を向け続けたいな、と思います。

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