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パレスチナ紛争事案関連Web記事まとめ③

ラマダーン終わり間近の5月10日、イェルサレムのアルアクサ・モスクでのイスラエル=パレスチナの衝突を発端として、パレスチナ自治区とイスラエルの間で激しい戦闘状態が続いています。

重要な問題だと思うので、自分の語学の練習も兼ねてアラブメディアの報道している記事を何個か紹介してみようと思いました。

著作権への配慮から全訳はしていません。誤訳、誤記等々は十分あり得ます。ご容赦ください。

アル=アラビーヤ、5月10日に投稿された記事の抄訳です。今回の紛争は東エルサレムにあるシェイフ・ジャッラーフ地区でのイスラエルによる強制退去措置をめぐる対立直接の発端とするのですが、その名前の由来になっている「シェイフ・ジャッラーフ」ってどんな人?? という記事。「結局よーわからん」という結論みたいですが、記述もはっきりせず、なんかモヤモヤする印象ですね。

記事はこちら↓

「シェイフ・ジャッラーフ」……世界を騒がせているパレスチナのある地区のお話

東エルサレムの複数の地区で、およそ二週間前から、パレスチナ人のデモ隊とユダヤ人入植者、およびイスラエル警察との間で対立が続いている。その背景には、イスラエル人入植者コミュニティーへの便宜を図るため、シェイフ・ジャッラーフ地区の複数の住宅からパレスチナ人住民を強制退去させた、というイスラエル側の決定がある。

イスラエル側のメディアによれば、当該地区のユダヤ人たちは、彼らの生まれ育った不動産(土地)に対する所有権を主張している。彼らによれば、ユダヤ人入植者はそれらの土地をユダヤ人コミュニティーから購入しており、またそのユダヤ人コミュニティーは一世紀近く前にそれらを(パレスチナ人から)購入しているのだという。

しかし、シェイフ・ジャッラーフ地区問題は、パレスチナ・イスラエル紛争に今回新しく加わったものではない。1948年や1972年には多くのパレスチナ人家族が当地区から退去させられている。特に1972年にはユダヤ人コミュニティーが、自らが多くの住居を立てている当該地区への所有権は19世紀後半にまで遡ることを主張している。

「シェイフ・ジャッラーフ」とは誰なのか?

シェイフ・ジャッラーフ地区とは、パレスチナが彼らの国家の首都であると主張するイェルサレム東部を構成する地域の一つである。その名前の由来になっている「シェイフ・ジャッラーフ」とはどんな人物なのかに関しては、様々な情報が錯綜している。

※「シェイフ(シャイフ)」は、元来「首長」や「族長」を指す語。知識人への尊称として「シェイフ・〇〇」のように用いられる。

シェイフ・ジャッラーフとは誰なのだろうか? 彼自身は永遠の沈黙の中にあるのに、彼が埋葬され、彼の名を関した土地の所有権めぐって他の人が争っているのだ。

「アルアラビーヤ・ネット」が調べたいくつかの情報筋によれば、シェイフ・ジャッラーフ地区あるいはシェイフ・ジャッラーフその人についての最も古い言及は、西暦十六世紀に見いだされるという。

ムジールッディーン・ハンバリー・アル・ウライミー[イェルサレムの法官にして歴史家。英語版Wiki]は、『イェルサレムとヘブロンの歴史の偉人たち』と題した書物[ネットにpdf落ちてました]で、イェルサレムの北部郊外に、「ザーウィヤ・ジャッラーヒーヤ」と言う名のザーウィヤ[小さなモスクやスーフィズムの修道場を指す語]を見たと記している。さらに、その小モスクは、寄進者であるアミール・フッサームッディーン・アルジャッラーヒー英語版Wiki]に関係するのだとしている。

さらに、ムジールッディーンによれば、ジャッラーヒー(アラビア語で「治癒者」あるいは「外科医」)はアイユーブ朝のサラディンに使えたアミールの一人で、ヒジュラ歴598年(西暦1202年)に亡くなり、その小モスクに埋葬された。さらに、その小モスクの南面には多くの被葬者がいるので、もしかするとジャッラーヒーに近しい人たちなのかもしれない、という推測も残している。

ジャッラーフの名は他にも、アブドゥル・ガニー・ナーブルスィー(十七~十八世紀のイスラーム知識人。英語版wiki)による『イェルサレムへ向かう旅の途上の人々』と題する旅行記で言及されている。

ところが、ナーブルスィーは[ムジールッディーンとは異なり]、このように記している。「ジャッラーフの墓はマザール[「訪れるところ」という意味。イスラームにおいて偉人の霊廟などは、寺院のように崇敬者を集める場所となることがある]となっている」……。「私たちはシェイフ・ジャッラーフのマザールに到着し、そこで『クルアーン』開扉章を独唱した」……。彼は上記ムジールッディーンの記述に依拠してジャッラーフを紹介しているが、サラーフッディーンに仕えるアミールであったとは記していない。

アミールからシェイフに、そしてタビーブ(医者)に

より後年の文献を見ると、ジャッラーフがどんな人であったか(アミールであったかシェイフであったか)の謎は一層深まる。彼はムジールッディーンの文献ではアミールとされ、ナーブルスィーの文献ではシェイフとされたのに、より近年の諸文献では医者であったともされているのだ。

アレフ・アルアレフ(二十世紀に活躍したパレスチナ人著述家。英語版Wiki)の著した『イェルサレム史集成』では、シェイフ・ジャッラーフは医者であったと記されている。その根拠は示されていないものの、ジャッラーフはサラーフッディーンの侍医であったと記しているのだ。

「フッサームッディーン」の名前は、大物編纂者の書物に載っていない

ジャッラーフの他にも、サラーフッディーンに仕えたアミールの中で「フッサームッディーン」の名を持つ有名人がいる。「サミーン」の名を持つフッサームッディーン・アブー・アルヒージャーウがそれだ。

他にもフッサームがいる。サラーフッディーンの甥のフッサームッディーン・ビン・ラージーンがその人で、歿年はヒジュラ歴587年だ。

高名なイスラーム史書では、サラーフッディーンに仕えたアミールと言われている人でフッサームッディーンという名を持ちヒジュラ歴598年に亡くなった人は言及されていない。

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