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メディアのコミュニティ化とオピニオンリーダー育成とオウンドメディアの可能性

オウンドメディアのみならず、多くのwebメディアを見てきました。web発のメディア(webのみ、もしくはwebから始まったメディア)の中で、ニュースメディアでもなく、まとめサイトのような「二次メディア」でもなくて、10年近く続いているメディアを探そうとするとほとんど見当たらないことに気がつきました。

パッと浮かんだのが「ほぼ日」でした。
あとは「サイボウズ式」「ジモコロ」といったところでしょうか。

つづいているメディアの共通項は「伝え手が真ん中にいる」(もしくは人たらしめるほどの世界観・思想が通底している)ということです(書籍『オウンドメディア進化論』でもこの点については言及しています)。

ただ、「人を真ん中に立て続ける」のはめちゃくちゃタフなことで、まずその「真ん中に立つ人」への負担が高すぎるという点があります。まずは、伝え手が受け手の言葉をダイレクトに受けてしまうことです。「真ん中に立つ」ということは「晒される」ということで、SNS等でも存在感を出しながら、伝え手が意志・意図を発し続ける必要性が伴うということでもあります。多くのメディアの公式SNSのアカウントのフォロワーが編集長のフォロワーより少ないことがこの証左です。否が応にも、メディア以上に存在感がある必要すらあるわけです。それは例えるなら常に寒風(時に熱風)に晒されている状態です。そんな状況が続けば当然疲弊も消耗もします。さらにいえば、そういった状況が続くことで、本人のコンディションが悪化し、メディアが「ゼロになってしまう」というリスクも内包しています。

さらには、「同じ人」が経ち続けることによる「飽き」との闘いもあります。それは受け手が飽きるということはもちろん、伝え手側の飽きもある、ということです。だから新陳代謝が必要なのですが、多くの場合、その新陳代謝(要は代替わり)をするタイミングでは既に旬が過ぎていたり、2代目が初代を超えられないというジレンマもあったりします(初代がすごいというバイアスがかかってしまう)。

なので、伝え手を真ん中に置いたコンテンツのみのつながりだけでは、なかなか存続は難しいのではないか、と思うわけです。特にオウンドメディアが難しいのもここです。そもそも人を中心に置けないケースがほとんどです。大体は組織の命令でメディア運営における担当者はいても、「発信(意志)の中心」になりうることはほとんどないからです。

ただ、ここでひとつヒントになるのが、この『仮説の手前』でも登場している「ほぼ日の学校」です。

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確たる根拠はないけれど「そうかもしれない」と思うことは、日々の生活や仕事の中で結構あると思うんです。普段は通り過ぎてしまうそういう感覚が後々顔を出してはヒントを与えてくれることも。正解やノウハウばかりが並ぶSNSでは発言することに気が引けてしまう「なんとなく」を月に2回を目処に書き残していきます。読んだ方々にとって、日常の「小さな兆し」に気づくきっかけになれれば。

仮説の手前

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