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【読書メモ】『みんなのアンラーニング論 組織に縛られずに働く、生きる、学ぶ』(長岡健著)

一言、とにかく面白かったです!冒頭の「学習は手段なのか?」という読者への問いかけから唸りました。基本的には冒頭の問いに対してNoというスタンスで論旨を展開されるのですが、個人的には最初から最後まで共感しまくりで、引き込まれました。

私は、高校まで勉強というものがキライでしかたなく、大学生になってから学ぶということが好きになりました。社会人になってからも書籍を読み漁り、社外での勉強会に参加し、大学の授業を聴講し、大学院にも複数回通っています(笑)。周囲の同僚からは、「仕事に活きるの?資格でも取るの?」と(おそらくは)悪意なく訊かれ、そのたびに、「いえ、ただ〇〇に興味があるだけなんですが。。」と答え、怪訝な顔をされ続けてきました。

本書は、学校や企業から強制される勉強がキライで単純に学習したいから学習するタイプの方が共感できる書籍と言えそうです。もしくは、強制型や受身的な学びに問題意識をぼんやりと持っておられる方にとっても示唆的なのかもしれません。ガイド的に内容を紹介してみます。

学習を手段化する人材育成

学習という言葉が企業の中で使われるようになったのは古いことではなく、2000年代に入ってからです。その際に、企業における学習は職務に求められるパフォーマンス向上のためであるという意味転換が為されたと著者は指摘しています。

2000年代の人材育成の現場には、学習という表面的な言葉だけが輸入されたのではなく、「学習=知識習得」から「学習=パフォーマンス向上」へのパラダイムシフトが起こったと言うべきだと思っています。(113頁)

この箇所を読むと、2000年代に新卒入社した私が、ただ学習するというプロセスをたのしみ自分自身の価値観を揺さぶることは職場においてマイノリティであるという背景がよくわかります。企業で働く普通の社会人にとって、学習はパフォーマンス向上のためなのです。

もちろん、こうした考え方を否定するつもりは毛頭ありませんし、著者も否定されていません。ただ、両方の考え方があるよねということを意識することは重要でしょう。

こうした学習に関する二つの考え方は、二つのアンラーニングの捉え方を生み出していると著者はしています。まず、学習=パフォーマンスという組織論におけるアンラーニングの考え方を見てみます。

組織論におけるアンラーニングとは、「不適切となった既存の習慣/知識/価値基準などを棄て、新たに、妥当性が高く、有用なものに入れ換えること」を意味しています。そして、組織の生産性向上を継続的に実現するには、因習化した知識や時代錯誤の価値観を「いかに棄て去るか」を考えなければならないと強調している点に、その特徴を見いだすことができます。つまり、アンラーニングは環境変化に対応する方法と理解されているのです。(132頁)

組織論におけるアンラーニングは、和訳すると学習棄却だそうです。組織が環境変化に対応するために自分自身も変化する、そのために必要なことがアンラーニングである、という考え方です。

他方で、もう一つのアンラーニングは、結果ではなくプロセスに焦点が当たってます。

「学習を解き放つためのアンラーニング」が重視するのは、因習化した知識や時代錯誤の価値観を棄て去ったかどうかの「結果」ではなく、行動を他者に縛られず、判断を他者に依存しない自分自身を醸成していく「プロセス」です。ここに視点を置くことで、古い価値観や因習、世間的な常識、狭い世界だけで通用する考え方などの限界を知り、自分の中の主体性を力強く発揮していくために、学習を脱手段化していく長く終わりなきプロセスの体験を、「学びほぐし(=アンラーニング)」と呼ぶことの意味がわかってきます。(137頁)

本書と文脈が少々異なる向きもありますが、学びほぐしという言葉は、松尾先生の以下の書籍と同じ言葉遣いです。松尾先生も、長岡先生も、両者ともに哲学者の鶴見俊輔氏がヘレン・ケラーとの対話で用いた「学びほぐし」という訳出から引かれているので同じ意味合いと考えられます。

ここでは紹介できませんでしたが、五名の実践家のエピソードも非常に興味深く、贅沢な一冊でした。読書会とかしたいほど素敵な著作ですので、ぜひお手に取ってみてくださいませ。


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