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【読書メモ】ジェイムズと漱石:『ウィリアム・ジェイムズのことば』(岸本智典編著)

週一でまったりと読み返して書いている『ウィリアム・ジェイムズのことば』。今回は、経験、個人、宗教、漱石、といった言葉を手掛かりにまとめてみたいと思います。

経験とオープンな個人

本書を扱ったこれまでのまとめでも述べたとおり、ジェイムズは個人の経験を重視しています。日常における具体的な経験が個人を形成するというわけです。しかし、こうした個別具体的な経験によって構築される個人は閉じた存在であるというわけでは全くありません。

ジェイムズ哲学は、個別、具体的であると同時に広大な意識の一部でもあるという二面性を孕んだ「個人」に焦点を当てて展開されているのです。

p.67

行動するのも個人ですし、意識するのも個人ですが、その背景には個人を超えた広大な意識とでも呼ばれる存在があるとどうやらジェイムズは考えていたようなのです。したがって私たちはオープンな個人として他者や環境と相互作用しながら、それと同時に具体的な経験から自身を形成するというダイナミックなプロセスも重視するということを考えることが重要なのでしょう。

宗教的意識

こうした個人を超えた広大な意識という言葉からは、やや宗教のテーストを感じる方もおられるかもしれません。実際、ジェイムズは『宗教的経験の諸相』という有名な書籍を出しているように宗教についても思索の対象として扱っています。

「自分より大きな何ものか」への「感じ」というものは、人々を宗教的に信服させずにはおかない

p.68

2020年代の日本社会に住む私たちの感覚からすると少々踏み込みすぎな印象もあります。ただ、特定の宗教を持たない私が読んでも、言わんとしている方向性についてはなんとなく感得できるものもあるような気がします。日本的なアニミズムで言えば、人が周囲にいない森林に入った時にふと感じる大きな存在のようなもの、という感じでしょうか。

ジェイムズと漱石

このような私たちが合理的に割り切れない「感じ」を重視したジェイムズに影響を受けたのが夏目漱石であったと指摘されています。

漱石は「感じ」や「情緒」といったものを重要視していました。人間の情緒を描き、読者に影響を与えることが「文学者の理想」であったのですが(中略)、そうした主張を支える背景にあったのは、こうしたジェイムズ流の「感じ」を重視する議論だったと言えるのではないでしょうか。

p.69-70

この辺りの展開は、本書の共著者の一人である岩下弘史さんの『ふわふわする漱石:その哲学的基礎とウィリアム・ジェイムズ』にも詳しいので、ご関心のある方はぜひ併読なさってみてください。


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