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【読書メモ】社会の探究が生まれるところ:『シュッツの社会科学認識論』(高艸賢著)第1章・第3節

アルフレッド・シュッツ、面白いわーと特に思う節でした。引き続き、高艸賢さんの『シュッツの社会科学認識論』を読んでいて、今回扱う第1章・第3節のテーマは「社会の探究が生まれるところ」です。シュッツがすごいのか、著者が解説がすごいのか、おそらくはその両方なのでしょう。

シュッツの現象学的社会学の特徴

シュッツは社会科学における認識論を反省的に再構成したのですが、このようなアプローチはシュッツ独自のものというわけではありません。彼のオリジナルな特徴としては、本節のタイトルにもなっている社会の探究が生まれるところというまさにその瞬間に焦点を当てている点です。

より具体的にいえば「意味を帯びた経験が生まれるところを捉えること」(12頁)と著者は表現しています。まさにその瞬間というものを捉えるためには、外側から客観的にではなく内側から把握するということが必要になるわけです。

ベルクソンの生成論+フッサールの現象学

このような内側から捉えるという現象学的社会学のアプローチは、ベルクソンとフッサールを導入することで可能になったようです。

シュッツの理論がつねに「私」という一人称的視点から展開されるのは、「生まれ出ずる状態において」思考するための方法的工夫である。事象を「外側から」記述しても「生まれ出ずる状態」には到達できないのだとすれば、事象に「内側から」入り込むしかない。シュッツにとってベルクソンの「持続」やフッサールの「内的時間意識」「志向性」「生世界」は、事象に「内側から」入り込むことを可能にする概念であった。

12頁

この引用箇所は深すぎて、何も足せないですね。客観性とか主観性というものを考えさせられる、すごい箇所だと思います。

プラグマティズムとの違い

社会の探究が生まれるところというまさにその瞬間に焦点を当てる現象学的社会学は、プラグマティズムとは異なると著者は指摘しています。というのも、プラグマティズムは「認識がいかにして生まれるかよりも認識が何をもたらすのかに関心を寄せる」(12頁)からです。

一定の期間を眺めてみるとプラグマティズムと現象学的社会学の捉え方に矛盾はないのかもしれません。しかし、どこに着目して捉えているかは両者で異なるということなのでしょう。


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