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良くも悪くも山田洋次作品「キネマの神様」

良くも悪くも山田洋次作品という感じだった。そして、久しぶりにシネコンで観客のほとんどが自分より年上という状態を経験した。コロナ禍になって初めてかもしれない。まぁ、山田洋次作品なんて、10代、20代の観客は興味を持たないよね。菅田将暉とか永野芽郁のファンが見るくらいかな。

とはいえ、山田洋次作品にしては空席が目立っていたので、やはり中高年の映画ファンにはシネコンで映画を見ることを躊躇している人がいまだに多いのだと思う。
ミニシアターだと結構、自分より年上の人が多いこともあるけれど、シネコンではそうならないというのは、やはり、シネコンに行くことを怖がっている中高年が多いってことなんだろうね。
シネコンというのはショッピングモールなど商業施設の中にあり、若者や子連れの一家の来場者が多く、若者や子どもは無症状のまま、別の人間に感染させてしまう恐れがあるから、そういう所には行きたくないってことなのかな?

ところで、本作には原作小説があるので全く異なる作品ではあるのだが、山田洋次作品でタイトルに“キネマ”という言葉が入っていれば、映画ファンなら嫌でも「キネマの天地」を思い浮かべてしまうと思う。
撮影所を舞台にした人間模様というのもそうだし、主人公が映画館で映画を見ながら死ぬというオチも同じだしね。
そういえば、この主人公、ジュリーが演じたが(本来は志村けんが演じるはずだった…)、性格といい、台詞回しといい、渥美清っぽいんだよね。だから、尚更、「キネマの天地」を思い浮かべてしまう。

台詞といえば、相変わらず、山田洋次作品の台詞の言い回しって古くさいよね。昭和の映画やドラマみたい。これが昭和の話ならまだしも、コロナ禍まで描いた作品なんだからね…。

山田洋次作品が古くさく感じるのは脚本のせいだろうね。海外の巨匠でいえば、スティーブン・スピルバーグはほとんど脚本を書かないし、マーティン・スコセッシも最近は脚本を書かないことが多い。だから、最近の作品でも若者の鑑賞に耐え得るものとなっている。
結局、撮影とか編集の技術は新しいものを取り入れられても、脚本はやっぱり、高齢者には高齢者のセンスしか出せないってことかな。

そうえいば、やたらとアル中という言葉が出てきたのも気になった。山田洋次世代は言葉のアップデートがされていないんだろうね。
高齢者の主人公世代が言うのはいいけれど、依存症治療にあたる先生とか若い世代まで言っているのは、完全に山田洋次の頭の中にアルコール依存性という言葉がない証拠だと思う。

ところで、いくら、新型コロナウイルスによって、志村けんが命を落としたからといって、代役のジュリーが劇中で歌う曲を“東村山音頭”にする必要はなかったんじゃないかなって気もするな。ジュリーの曲で良かったのでは?

それから、製作中に志村けんの死など新型コロナの影響を受けたからとはいえ、終盤がコロナの影響を受けた映画館を救おうみたいな話になるのはどうかと思う。唐突なんだよね。

あと、この主人公がかつて関わっていた製作中止になった映画の脚本を脚本賞に応募して受賞するってのもおかしな話だよね。
いくら、脚本を書いた本人がリライトしたといっても、著作権的にはNGだよね。脚本や小説のコンテストによっては、世に出ていなくても、他のコンテストに応募した作品で応募するのは不可としているものもあるくらいだから、撮影中止になった映画の脚本のリライトなんてダメだと思うな。

といった感じで、本作の問題点や疑問点について語ってみたが、その一方で、クリエイティブ職、特に映像関係の仕事をしている人間には共感や納得できるところも多かった。

日本の映画人とか芸能人って、尊敬しているとか憧れているとか言いながら、平気で海外の映画監督や俳優を呼び捨てにするが、それって、本当、意味不明だと思う。普通なら尊敬するなら敬称をつけるはずなのにね。

でも、それって結局、自分たちがやっていることは海外とは比べものにならないほどお遊びレベルだということを分かっているからなんだろうね。仲良しこよしサークル的なノリで、国内の映画人や芸能人は単なる仲間というか同じ町内会の人間だからさん付けで、海外の大物は別世界の人間として呼び捨てにしているってことなんだろうね。
本作に登場した映画監督の1人が日本の俳優の演技は話にならないって語っていたのは、日本の映画界、芸能界が所詮、仲良しこよしサークルであるということを表していると思った。

それから、本作の主人公は監督デビュー作の撮影初日に技術スタッフから自分のアイデアをことごとく無視され、それにブチ切れた際にケガをして、そのまま、作品が撮影中止となり、本人も映画界を引退することになるけれど、その描写がリアルなんだよね。

半世紀くらい前の話なのに、今も日本の映画やテレビといった映像業界の体質はその時と変わらないからね。
何故か、日本の現場では監督・ディレクターなどといった制作スタッフよりも、カメラ・照明・音声など技術スタッフの方が上下関係的には立場が上なんだよね。

カメラマンが“それは意味がない”と言ったら、どんなに監督や助監督が練りに練って考えたプランでも却下されてしまうんだよね。

自分はテレビ番組の制作に関わっているが、本当、自分は何でいるんだろうって思ってしまうこと多いしね。

結局、これって、技術スタッフの連中のねたみ・ひがみなんだよね。ギャラは圧倒的に制作スタッフの方が上だからね(それはそれで問題なんだけれどね)。
だから、とりあえず、制作の提案したことは一旦否定しなくては気が済まないというクセがついてしまったんだろうね。それが、日本の映画やドラマが海外に比べてレベルが低くなっている要因だと思う。

あと、本作には自分の家族の一系との共通点も多いと感じることができた。うちの母親も、母方の祖母も典型的な“宵越しの金を持たない下町民”的な金銭感覚だから、こちらが借金返済の工面をしなくてはならないこともあったしね。
だから、本作で寺島しのぶ演じる主人公の娘が、次から次へと借金をする父親に怒る姿には共感できた。この娘と同じく、自分も失業中に親の借金に悩まされたことあったからね…。本当、生まれてこなければ良かったと思ったくらいだしね。

そして、親子3代揃ってクリエイティブ職志向ってのも共通点があると思った。

この作品では、
祖父:助監督、脚本家
祖母:映画関係者が出入りする飲食店の娘、今は名画座のスタッフ
娘:映画雑誌編集
孫:ウェブデザイン、脚本リライト
って感じだけれど、

うちは、
祖父:映画評論家or画家志望→アクセサリーデザイン→靴製造メーカー勤務
祖母:映画館のアナウンス担当
娘:美術系専門学校出身、スポーツ新聞社バイト経験あり
孫:テレビ番組製作者
って感じだからね。

母方の一系の話という共通点もあるな…。

そういえば、本作で脚本の賞を受賞した際に主人公が一番貢献した孫に謝意を述べなかったのは納得いかないな…。

ところで、本作は昔の撮影現場が舞台なので、台詞の中に“ロケーション”という言葉が出てくるが、いつの間にか、これを縮めた“ロケ”という言葉の方が主流になってしまったよね。自分が映画の勉強をしていた頃はまだ、年がいっている人は“ロケーション”と言っていたけれど、今では、みんな、“ロケ”と言っているしね。

最近ではNHKのニュースや一般紙の記事でも普通に“ロケ”という言葉が使われているけれど、本来は、“ロケーション”と言うべき言葉なんだというのを知らない人も多いかもしれないな…。

そして、“ロケーション”というのは場所のことだから、場所を決めて撮影することは“ロケーション撮影”と言うべきなんだよね。
“ロケーション”もしくは、それを縮めた“ロケ”という言葉には撮影という意味は全くないのに、NHKや一般紙までもが、映画やテレビドラマの撮影という意味で、ただ単に“ロケ”と表記しているのはなんだかなと思う。

それにしても、本作のヒロイン役の永野芽郁はめちゃくちゃ可愛い!
団塊ジュニアを演じた朝ドラ「半分、青い。」は脚本家のキャラクター造形が酷かったせいで、彼女の印象まで悪化させてしまったが、本作の彼女を見れば、同じ朝ドラでも、朝ドラに多いパターンの第二次世界大戦をまたぐストーリー展開のものだったら、評価は高まったのではないかと思うのではないだろうか。

そういえば、永野芽郁といえば、最近、新型コロナに感染したばかりなのに、もう仕事に復帰していて驚いた。W主演のドラマ「ハコヅメ」も2週間、総集編プラスαで穴埋めしていたが、その総集編2週目の終盤で明らかに声のみとはいえ、新たに録ったと思われる台詞が入っていたしね…。

彼女に限らず、松井玲奈とかもそうだけれど、感染した芸能人の職場復帰、早すぎるでしょ!それだけ、カチカチのスケジュールで現場が回っているし、1日でもはやく復帰しないと収入減が響くってことなんだろうけれどさ…。

結局、日本のエンタメが世界レベルには届かないのって、低賃金・超時間労働の自転車操業だからだよね。

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