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インディ・ジョーンズと運命のダイヤル

「インディ・ジョーンズ」シリーズ15年ぶりの新作ということだが、どうもワクワクしないんだよね。シリーズのファンのはずなのにね…。

1984年のシリーズ2作目で時系列では一番古い時代を描いた作品である「魔宮の伝説」は間違いなく、これまでの人生の中で見た映画でトップ10、もしかするとトップ5に入るくらい好きな作品だ。
おそらく、人間ドラマ部分を抜きにして純粋な娯楽映画としての面白さだけでトップ10なりトップ5に入っているのはこの作品だけだ。

10代の頃より自分の生涯ベストである「街の灯」は喜劇映画、つまり、娯楽映画としてもめちゃくちゃ面白いが、この作品が名作であるのは階級社会の皮肉を描いているからだ。目が見えないため差別する側だった人間が手術して目が見えるようになると放浪紳士の主人公を見下して見るようになるラストなんて、それを見事に描写しているように思う。

しかし、「魔宮の伝説」にはそんなものはない。ただ、ノンストップでアクションやギャグがたたみかけられているだけだ。オープニングの上海のナイトクラブでのミュージカルシーンから、インディがインドの山奥に不時着するまでの一連の流れは息つく暇もないほどだし、それ以降もトロッコや吊り橋の場面など映画史に残る名場面だらけで本当に面白い映画だと思う。

でも、エログロとか悪趣味と呼ばれる場面が多く批評家や(公開当時の)シネフィルの受けは良くなかった。寝室の室内の彫像の胸を触ると秘密のエリアの扉が開けるとか、そのエリアの入口は虫がウジャウジャいるとか、秘密のエリアでは人の心臓を抉りとる儀式か行われているとか、まぁ、良識派と呼ばれる人からは嫌われそうな要素のオンパレードだ。
特に、インド人を残忍な権力者か言葉や文化の通じない貧しい一般人みたいにステレオタイプ的に描いていたり、それこそ、脳みそのシャーベットを食べるような野蛮な人種みたいに描いていたことは批判されても仕方ないと思う。また、キャーキャー騒ぎまくるヒロインもフェミ的思想の人の受けは良くなかったと思う(演じたケイト・キャプショーは後にスピルバーグ夫人となるが)。それから、上海のナイトクラブに登場する組織のボスや、インディと冒険をともにする少年など中国人の描写もステレオタイプに満ちていた。

シリーズ1作目の「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」はナチスが登場するから賞レースを賑わせる作品になったが、ステレオタイプ的にインド人や女性、中国人を描いた「魔宮の伝説」が評価されないのは仕方ないのかなとも思う。

だから、そういう声を受けて公開当時はお気に入りみたいなことを言っていたはずのスティーブン・スピルバーグ監督も後にフィルモグラフィの中で嫌いな作品として同作をあげるようになったのだろう。

個人的にはスピルバーグ監督の最高傑作だと思うけれどね。彼の持つピュアな部分と悪趣味な部分、1985年の「カラーパープル」以降、たびたび作られるようになった社会派路線の作品で見られる階級社会批判(ステレオタイプ描写は問題あるが)、さらには最新技術の導入など、スピルバーグ作品の基本要素は全てこれに入っているからね。

そんなわけで、「インディ・ジョーンズ」は好きなシリーズである。


でも、本作「運命のダイヤル」に対する自分の期待値は高まらなかった。

それは、2008年の前作「クリスタル・スカルの王国」がつまらなかったというのが最大の要因だ。

それにプラスして、メガホンをとるのがこれまでのスピルバーグ監督ではなく、ジェームズ・マンゴールド監督になったということも不安要素になっていた。
「LOGAN/ローガン」は「X-MEN」シリーズ屈指の傑作だと思うし、「フォードvsフェラーリ」はアカデミー作品賞にノミネートされている。でも、過去4作品でメガホンをとったスピルバーグ監督作品でなくなるというのは不安要素でもあった。
これにより、全作品でスピルバーグがメガホンをとっているシリーズものはなくなった。ちなみに、シリーズ化している作品でスピルバーグが監督したのは、「ジョーズ」は1作目のみ、「ジュラシック・パーク」は2作目までとなる。


一方で、安心材料もある。

ルーカスフィルムがディズニー傘下になってからの「スター・ウォーズ」シリーズには参加しなかったジョージ・ルーカスが、同じくディズニー映画となったのにもかかわらず本作には製作総指揮としてクレジットされていること。

また、スピルバーグがメガホンをとっていないプロデュース作品ではこれまで、「SAYURI」にしか関わっていなかったジョン・ウィリアムズがスコアを提供していること。

この辺はシリーズのファンにとっては嬉しいことだと思う。

とはいえ、予告編を見た限りでは全然面白そうに見えないんだよね。ザ・ローリング・ストーンズの“悪魔を憐れむ歌”とシリーズのテーマ曲“レイダース・マーチ”をマッシュアップしたスコアは良かったけれどね。

なので、あまり期待せずに本作を見ることにした。上映時間が2時間34分と長いのも不安材料だしね。

そして、その不安は的中した。やっぱり、ダラダラとした感じがする。

まず、アドベンチャー映画の要素が薄いんだよね。「インディ・ジョーンズ」というより半世紀前を舞台にした「ミッション:インポッシブル」って感じなんだよね。まぁ、元々、このシリーズは「007」みたいなものを作りたくて始まったんだから原点に戻ったと考えれば間違ってはいないんだろうけれど、それでいいんだろうかという気もする。

あと、なろう系の要素が入っているなとちょっと思った。もっとも、日本だとナチスドイツとか大日本帝国が続いていたらというウヨ寄りな世界観のものが多いが、この作品は過去に遡ってアドルフ・ヒトラーをとっとと亡きものにしてしまうおうと(=第二次世界大戦勃発を防ぐ)ナチス残党が画策するというものだから思想は全く逆だけれどね。ある意味、クエンティン・タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」あたりのノリに近いのかな。

というか、ヒトラーの時代に行くはずが紀元前に行ってしまうという展開はどうなのよって気がする。確かに今までのシリーズでもありえないことがたくさんあった。超常現象で人間が溶けるとか、闇の儀式で心臓を抉り出された人間の意識があったりとか、異星人が出てきたりとか、トンデモ現象はたびたび描かれてきた。でも、タイムスリップはやり過ぎでしょって気がするな。超常現象も闇儀式も異星人も一応、作中における現在のシーンとして描かれていたわけだしね。

確かにこれまでのシリーズで見たようなシーン、たとえば授業をつまらなさそうに聞いている学生とか、ヒロイン的存在のキャラがインディを裏切るとかお約束の描写はあったし、老いたマリオンの登場シーンに“マリオンのテーマ”が流れればうるっと来てしまう。でも、これでいいのかって気もする。単なる中高年向けの同窓会ムービーじゃないんだしね。

ところで、マリオンって「男はつらいよ」シリーズにおけるリリーみたいな存在なのかな?

というか、本作が退屈に感じるのは画面が暗いシーンが多いからだと思う。密教の儀式や坑道のトロッコのシーンがあった「魔宮の伝説」ですらこんなに暗くは見えなかった。まぁ、最近のハリウッド映画って全般的に画面が暗いよね。逆にかつては暗いと言われていた日本映画の方が明るいくらいだ(ミニシアター系は相変わらず暗いが)。日本映画の画面が明るくなったのはテレビのスペシャルドラマみたいな内容の作品が増えたというのもあるけれどね。

そして、気になるのは冒頭の第二次世界大戦中のシーンにおけるハリソン・フォードをAI技術で若く見えるようにしていることだ。さすがに、80年代に作られた1〜3作目の時よりはちょっと老けて見えるが、それでも現在81歳のハリソンがアラフォーくらいには見える。

こうした中身は年取った現在の俳優が演じているが、見た目は特殊な技術を使って若く見せるという手法は「アイリッシュマン」のロバート・デ・ニーロや「キャプテン・マーベル」のサミュエル・L・ジャクソンのケースでも導入されている。

いくら、テクノロジーのおかげで画面上は若く見えると言っても、演技自体が高齢者のままでは何の意味もないわけだから、映像に合った若い演技ができるハリソンらの演技力が見事だということなんだと思う。

ただ、このAI技術の発展が現在ハリウッドで起きているストライキの理由にもなっている。
日本は音事業という組織や芸能事務所制度のおかげで、過去作品の演技を再利用するには金もかかるし、許諾の手間もかかるが、エージェント制の欧米はそういうシステムではないから、最初に交わした契約にAI技術を使った流用を認めるという項目があれば、半永久的に映画やドラマの制作会社は同じ俳優の演技を加工して様々な作品に使うことができるようになる。要はギャラを支払わずに俳優を使うことができるわけだ。そりゃ、反対するよね。
日本では高給取りのハリウッド・スターがストをするなんて何ほざいてんだみたいな風潮があるが、ハリウッドはエージェント制だから、俳優が自分が得たギャラをマネージャーや個人付きのメイクやスタイリストなどに分配する形となっている。つまり、複数人分のギャラを代表して受け取っているということだ。日本人の多くは、というか、マスコミ関係者ですら、このエージェント制度を知らないのが多いからハリウッド俳優のギャラが高いと文句を言っているんだよね。

それはさておき、予告編では先述したようにストーンズを使っていたのに本編では使われていなかったのは何故?
というか、ハリウッド映画には予告編に使われているのに本編に使われていない曲というのが山程あるから、そのこと自体は何とも思わないが、ストーンズを使わないくせに、60年代にライバル関係にあったとされるザ・ビートルズの“マジカル・ミステリー・ツアー”を使っているのは謎だ。
しかも、この後に続けて、デヴィッド・ボウイ“スペース・オディティ”やスタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルト“イパネマの娘”といった、ベタベタな選曲を連発させているのに、予告で流れたストーンズはかけないんだから意味不明だ。

ところで、「インディ・ジョーンズ」シリーズの原題は1作目「レイダース」以外は本作も含め“Indiana Jones and the 〜〜”となっていたが、邦題は“と”を省き、“インディ・ジョーンズ/〜〜”となっていた(例:インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説)。
ところが、本作は原題通り、「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」と間に“と”が入る形になっている。何かしっくり来ないんだよね。ルーカスフィルムがディズニー傘下になり、日本での配給もディズニーになったので、ディズニーが原題に準じた表記を求めたってことなのかな?


《追記》
シネコンのトイレの個室のドアにインディ・ジョーンズのステッカーが貼ってあったのは何故?
漏れそうな時はインディも真っ青になるくらいスリリングってこと?それとも、「レイダース」でインディが敵をあっさりと銃で倒すシーンはハリソンが腹痛のため急遽変更された演出だったというのをオマージュしたのか?


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