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おかえりモネ

「朝ドラ」という言葉を見聞きするたびに、自分が中学生だった時に教師が授業中に発した言葉を思い出す。
彼は生徒に対して、“朝ドラは何故、正式なタイトルが朝の連続テレビドラマではなく朝の連続テレビ小説なのか分かるか?”と質問した。

当時、「朝ドラ」は午前8時15分スタートなのだから、きちんと遅刻せずに登校している小中高生は「朝ドラ」なんて見ているわけがないのにね。

自分は小学生の時は一つも横断歩道を渡らずに登校できる環境にあり、足の遅い低学年に合わせたスピードで集団登校しても10分程度で学校に着くことができた。

中学生の時は、一ヵ所だけ横断歩道を渡るものの、それは信号のないものであり、しかも、そんなに広い道路でもなかったので、事実上、車などの影響を受けることなく登校できた。しかも、集団登校ではなく、近所の同学年の友人とつるんでの登校だったから、スピードも中学生のスピードで歩くことができるので、友人との待ち合わせを含めても(友人が寝坊しなければ)10分もかからなかった。

高校生の時は、区内の都立高校に自転車通学していたが、踏切とか信号につかまらなく、なおかつ、スピードを出せば、家からは10分ちょっとで着くことができた。ある程度、ゆったりなスピードで走っても15分ほどだった。

そんな、比較的、通学環境に恵まれた自分ですら、8時15分スタートの番組なんて見ることはできなかった。

この質問を投げかけた教師は担任を受け持っていなかったから、昼の再放送を職員室などで見ていたのかもしれないし、映画好きだったから、予約録画したものを家で見ていたのかもしれない。

でも、担任を受け持っている教師は生徒と一緒に教室で給食を食べることになっているし、地震とか台風のニュースなど余程のことがない限り、教室でテレビを見るなんてことはなかったから、担任教師の視点で考えても、授業で「朝ドラ」の話をするなんてのはありえないことだったんだよね。

そんな明らかにおかしな質問に対して生徒たちがリアクションできるわけがないので、彼は一方的に答えを述べることになるのだが、その答えに関しては“なるほどね”と納得することができた。

それは、“朝ドラというのは、共働きの人にとっては通勤準備をしながら見るもの。専業主婦にとっては夫や子どもの見送りをしながら見るもの。既に夫や子どもが出かけている専業主婦にとっては洗濯など家事をしながら見るもの。つまり、画面を見ていなくても、設定やストーリーが分かるように作られている。そのために、台詞で全部説明している。だから、役者の表情や周囲の風景も含めて映像で見せるドラマではない。小説の文章を読み上げているようなものだから、連続テレビ小説なんだ”といった感じのものだった。

映画好きの者らしい分析だが、小学校の高学年の頃から、ぴあなどを少ない小遣いで買って購読し、映画マニアの沼にはまりかけていた自分は、その話を聞いて、“そうだよね”と思った。当時は「朝ドラ」なんて、まともに見たことはなかったけれどね。

その後、日本の映画やドラマ、アニメがどんどん、「朝ドラ」化して説明台詞だらけになっていったのは言うまでもないことだ。
その背景には、自宅ではPCやスマホを操作しながら、映画館ではポップコーンを食べなから映像作品を見るという、いわゆる、ながら視聴・鑑賞の人が増えたことを意識した作劇法であることは間違いないと思う。要は朝ドラ的な見方をする人が増えたということだ。

その一方で、「朝ドラ」の視聴者層も変化していった。BSでは地上波より早い時間帯に放送されることから、通勤・通学する人たちが朝食をとったり、コーヒーを飲んだりしながら見られるようになった。勿論、ながら見であることには違いないが、家を出る瞬間に比べれば画面を見ている時間は圧倒的に増えている。

ジャニーズタレントの出演が増えているのは、通学前の児童・生徒・学生を狙っているのは明らかだと思う。

また、地上波での放送も2010年からは15分繰り上げられて8時ちょうどからになった。
これによって、通勤・通学の人でも、通勤・通学に時間がかからない人は、地上波でながら見ができるようになったと思うし、逆に専業主婦の中には夫や子どもの見送りの準備で音声すらも聞いている余裕がなくなったという人も出たのではないかと思う。

つまり、それまでは専業主婦と高齢者が見るものだった「朝ドラ」の視聴者層が変わったということだ。

また、この頃、ツイッターというSNSメディアが登場したことにより、見たばかりの「朝ドラ」最新エピソードの感想をツイッターでつぶやくという行為が日常化していった。

そして、制作側も明らかに、ネットでバズることを意識するようになり、中には「半分、青い。」の脚本家のように、それが失敗して大炎上したりするケースも起きやすくなっていった。

また、視聴者層の間でも派閥争いが起きるようになった。

ストーリーや設定、演出、演技などに対して否定的なコメントをつぶやく際には、番組名にハッシュタグをつけてつぶやいてはいけないなんていうアホなローカルルールを主張する連中と、そういう連中に腹を立てて、番組名やキャラクター名を茶化したようなネーミングのハッシュタグでつぶやく勢力の間での争いが日常茶飯事化したが、それは最たる例だと思う。

こういうハッシュタグ問題が起きる要因は、ドルオタ的思想にあると言っていいと思う。

ここ最近、ジャニーズや秋元系グループ(卒業者含む)などアイドルの「朝ドラ」出演が目立っている。また、アイドル的人気を誇るイケメン俳優や若手女優の出演も多い。
こうした人たちのファンの間には、自分の推しや推しが出演した作品を批判してはいけないという掟がある。推しの演技が下手なら、推しの出演した作品がつまらなければ、それを指摘するのが(勿論、本人に面と向かって言うのはあれだが)、本当のファンだと思うが、批判する人間はファンではなくアンチだとする風潮が2012年以降蔓延してしまった。

第2次安倍政権発足時に、取り巻き連中とネトウヨが“安倍政権を批判する連中は反日・在日”扱いするというキャンペーンをはり、それに洗脳されてしまった人たちが安倍政権を支持し続けることになったが、この戦略がアイドル批判に応用されたのだと思う。
アイドルやアニメのオタクにはネトウヨ思想と親和性の高い連中が多いからね。

そして、マンセー派と酷評派の争いと同時に、東京制作作品支持派と大阪制作作品支持派の争いも起きている。

一般的にネット民の間には、東京作品は酷評するもの。大阪作品は絶賛するものという風潮がある(例外はあるが)。

その背景にあるのは言うまでもなく、関西人や田舎者による東京(もしくは首都圏、あるいは関東)に対する憎悪や嫉妬だ。

東京作品がそうした関西人や地方民の怒りを買いやすいストーリー展開になっているというのもあるのではないかと思う。

大阪制作の過去5作品「べっぴんさん」、「わろてんか」、「まんぷく」、「スカーレット 」、「おちょやん」を見てみると、主人公は活動拠点を変えても、それは全て関西圏内での移動に過ぎない。

一方で東京制作の過去5作品「ひよっこ」、「半分、青い。」、「なつぞら」、「エール」、そして本作「おかえりモネ」を振り返ってみると、主人公の活動拠点がずっと関東圏なのは「ひよっこ」だけだ。

ちなみに、この5作品の中でアンチがほとんどいなかったのは「ひよっこ」だけだ。
そして、この好評だった「ひよっこ」を含めた5作品全てが主人公が上京する話だ(「なつぞら」の主人公は東京生まれだけれど戦災孤児として北海道で育ち、成長してから上京という若干ひねったパターン)。

こうしたことから分かることは、関西人や地方民はこの“上京物語”というのが、東京至上主義に思えるので気にいらないということだ。

だから、ネット上では東京制作作品の時になると、アンチの意見が増えるのだと思う。
去年は、前年秋から放送されていた大阪作品「スカーレット 」がネット上では好評だったが、春から放送された東京作品「エール」は原始時代が登場するなど謎演出も多く、放送開始当初は不評だった。

ところが、コロナの影響で放送が中断したことにより、視聴者の意識が変わったり、視聴者層の一部入れ替えがあったりしたせいか、放送再開後は、東京作品としては異例の高評価が続く状態となった。

その影響で朝ドラとしては異例の11月下旬スタートとなった「おちょやん」は大阪作品にしては珍しく酷評の嵐となった。

そりゃそうだ。共感できるような清廉潔白とか純真無垢とか親近感があるとか、そういうキャラクターがいないんだからね。汚い言葉遣いの連中とか、人を騙すのが当たり前みたいな連中ばかりだったからね。
でも、そんな作品でも見続けているとキャラクターに愛着がわくようになってくるので、というか、ガマンできなかった人は途中で離脱するケースも多いので、結局、終わった時点では高評価の作品となっていた。

ということで、スタート時は酷評なのに終了時は好評という作品が2作品続いたことになった。
そんなところへやってきたのが、この東京制作作品「おかえりモネ」だ。

先述したように、「朝ドラ」の視聴者層というのは、変わりつつある。昔ながらの専業主婦や高齢者も残ってはいるものの、SNSなどで批判にしろ絶賛にしろ、活発に感想を述べているのは、サブカル系の中年男性やジャニーズとかイケメン俳優が好きな若い女性だ。

だから、ここ最近の「朝ドラ」では、従来の枠組みからは外れたチャレンジグな演出が試されることが目立つようになっている。

「スカーレット 」や「エール」で本放送中にスピンオフを放送したり(=主人公の出番がない)、「エール」で原始時代の描写があったのもその一環だと思う。

本作「おかえりモネ」でも当然、そのような脱定番演出の試みは取り入れられている。

朝ドラ史上初となる、令和、そして、2020年代を描いたこともその一つだろう。

そして、何よりも大きな挑戦と言っていいのは時系列で描かないということだと思う。

通常の朝ドラは子役が演じる主人公の子ども時代を2週間ほど描いてからスタートする。
大抵は冒頭に成長した主人公の作中のストーリー上でのピークもしくは終盤となる場面が少し出てきて、それから子ども時代に戻るというパターンだが、以降は時系列で展開していく。

子役が登場しない「ひよっこ」は作中で描いている期間がたった4年ほどしかないということもあり、主人公とその幼なじみを演じる俳優陣がそのまま、高校時代も演じていたが、やはり、ストーリーは時系列で進んでいく。

また、子役による子ども時代を描いた上で、さらひ成長したバージョンの主人公・ヒロインを演じる俳優が高校生や大学生時代をも演じる「半分、青い。」や「エール」のようなパターンもある。 

子役が演じるか、主演俳優が演じるかはさておき、社会人になる前の主人公や幼なじみの描写を短期間とはいえ見せていることから、視聴者は登場人物たちのひととなりを知ることができ、ストーリーの進行に合わせて、自分も苦労したり成長したりした気分になり、共感度を高めることができるようになっている。

ところが本作では、第1話で主人公の誕生した日の様子こそ触れらてはいるものの、既に1話で主人公は社会人としての生活をスタートさせている。

そして、その後は回想シーンという形で、断片的に子役が演じる主人公の子ども時代や、主演女優が演じる中高年の頃を見せるというパターンが繰り返されている。

主人公に限らず、この作品ではどの登場人物に関してもそうだが、視聴者に“何かこの言動おかしくないか?”と思わせておいて、後から、回想シーンもしくは、説明台詞で過去の描写が断片的に提示されるというパターンが繰り返されている。
あまりにもこのパターンが繰り返され過ぎなので、私も同じ文言を何度も繰り返して使ってしまったが。

そもそも、主人公・百音のことをみんなが“モネ”と呼ぶ理由なんて、ラスト2話で明かすほどのことか?しかも、どうでもいい理由だったし。

母親が教師をやめた理由なんか、さんざん引っ張っておいて、結局、説明台詞のみ。過去シーンのインサートすらなかったしね。

映像で描かないんだったら、そもそもそんな設定いらないでしょ!
ラジオドラマとか演劇じゃないんだ!


コロナ禍で学校のシーンの撮影が難しいとか理由はあるのかもしれないが、合成写真くらいは簡単に出来るんだから、静止画くらいはインサートできるでしょ!

そもそも、本作は東日本大震災を題材にしていながら、大震災発生の瞬間を描いていないというのも問題だ。

大震災によって、主人公をはじめとする登場人物たちが心に闇を抱えるようになったという話なのにね。
何かというと、PTSDなどを引き起こさないよう被災者に配慮した素晴らしい演出だと持ち上げる人が多いが、だったら、そもそも、そうしたものを題材にするなよって話だしね。
まぁ、その大震災によって、心に闇が発生したことも、最初は“におわせ”で、後で回想や説明台詞で明かされるんだけれどね。

自分はかつて、芸術系の専門学校で映像関連の勉強をしていて、脚本の書き方を学ぶ授業も受けていた。

講師は、“無闇矢鱈と回想シーンを入れるな。安易に回想シーンを入れるのは無能な奴のやることだ”みたいなことをしつこく何度も繰り返し言っていたので、自分もそういうものだと思っていた。

元々、日本の映画やテレビドラマは安易に回想シーンを入れることから戒めの意味も込めて、講師は何度も口酸っぱく言っていたのだとは思う。

しかし、クエンティン・タランティーノ、クリストファー・ノーラン両監督作品のように時系列が一方向でない作品がもてはやされるようになり、その影響で国内外問わず、時系列を行ったり来たりさせる作品が乱発されるようになってしまつた。

その流れで回想シーンの乱用も以前より悪化してしまったようだ。

事件が解決された際に、わざわざ、キモとなるシーンをもう一回見せて、“どう?きちんと伏線はっていたでしょ?”というアピールする映画、本当、最近多いしね。

まぁ、それでも伏線らしきものをはっていれば、まだマシなんだけれどね。それまでに一度も登場していない過去の場面を回想で描いたり、台詞で説明したりというのが多すぎるんだよね、このドラマは。

もしかしたら、時系列を一方向にしない作品を否定する=タランティーノ的、ノーラン的作品を理解できない老害みたいに思われるので、自分がかつて脚本の書き方を習った時みたいな指導というのは今の時代には行われていないのかも、だから、こういう酷い脚本がまかり通っているのかもと思ったりもしたが、どうやら、最近の脚本教室のようなものでも、きちんと、“回想の乱用はだめ!”って教えているらしいんだよね。

つまり、きちんと、脚本が書けない、文章が書けない脚本家の方がデビューしやすいってことになってしまっているんだろうね。
結局、女子高生が執筆とか、主婦が執筆とか、そういう話題性だけで賞を与えてデビューさせてしまっているから、こんなクソな脚本が世に溢れているってことなんだろうね。

タランティーノやノーランは自分で書いた脚本を自分で演出しているから、時系列がおかしい作品でも、きちんとした作品になっているけれど、本作のように、脚本家と演出家が違う作品では、念入りに意思の疎通をはかっておかないと、おかしな展開になってしまうってことかな。

そして、何よりも腹が立つのが、きちんと脚本とか文章の書き方を学んだ人間からすれば、全然なっていない脚本だし、演出家も全然、それをきちんと映像化できていないのに、一部の視聴者が持ち上げて、逆にこの作品の脚本や演出を批判している人たちを“映画やドラマを見る目がない人”扱いしていることなんだよね。

逆だろ!

結局、この作品を持ち上げている連中なんて、脚本や演出のことなんて何も分かっていないんだよ。

おかえりモネ信者って、伏線の意味を分かっていないよね。

視聴者に何のヒントも与えずモヤモヤしたものを見せておいて、後で説明台詞とか回想で明かすことを伏線回収とは言いません!

単に本作の脚本家である安達奈緒子が手掛けた過去作品が好きで、その作品きっかけで出演俳優も好きになり、彼ら・彼女たちが本作にも出ているから、その流れで脚本家も俳優も批判しないってだけでしょ。

つまり、安達奈緒子のファンというよりかは、彼女が脚本を手掛けた「透明なゆりかご」や「きのう何食べた?」といった作品のファン。
そして、「透明なゆりかご」主演の清原果耶や、「きのう何食べた?」のW主演、西島秀俊と内野聖陽のファンが、過去作を思わせるような描写を時々見せてくれるから喜んでいるだけに過ぎないのでは?

あと、King & Princeの永瀬廉も主人公の幼なじみ役で出演しているが、ジャニオタと呼ばれる人たちは、自分が推しているジャニーズメンバーは勿論、他のジャニーズメンバーが出演している作品も批判せずに何でもかんでも絶賛する傾向があるので、そうした声が脚本家の過去作品のファンの意見と合体して、作品批判できない雰囲気を醸成していたのではないだろうか。

あと、あざといキャスティングもなんだかなって気がするかな。SNSやネットニュースで話題になれば勝ちみたいなノリなんだろうけれどね。

脚本:安達奈緒子、主演:清原果耶という組み合わせも勿論そうだし、同じ安達脚本作品「きのう何食べた?」のW主演である西島秀俊と内野聖陽の両方をキャスティングし、2人が演じるキャラクター(西島は主人公の上司、内野は父親役)が語り合うシーンを入れるなんてのはネット民の間やネット記事でバズることを目的にしていることは明白だ。

また、AV女優に非人道的な行為があったのではと噂されている上に、ネトウヨ思想の塊でもある村西とおるを美化しているとリベラルやフェミ層から批判されたNetflixのドラマ「全裸監督」の第1シーズンのヒロイン役・森田望智と、第2シーズンのヒロイン役・恒松祐里をともにキャスティングするなんてのも、ネット民やネット記事での受けを狙っているとしか思えない。

いくら、ここ最近、朝ドラの視聴者層は変わりつつあるとはいえ、本放送の時間帯は未成年も見る可能性も高いのに、時には非人道的とも思えることを行ったAV監督を美化する作品でAV女優役を演じた女優をキャスティングするなんて、NHKとしてはやるべきではないことだと思う。

結局、大した理由でもないのに、謎めいた言動を登場人物にさせて、それを後々に回想とか説明台詞で謎解きする展開ってのも、ネット受けのためなんだろうね。

そのおかげで、支離滅裂な脚本・演出になったけれどね。
もっと、中身で勝負しろよって思う。

朝ドラの前作「おちょやん」の第1話はクソつまらなかったし、スタートしてからしばらくは、主人公を含む登場人物の誰一人にも共感できない状態が続いた。

それでも、最終的には主人公に親近感を抱き、あれだけ、○してやりたいと思った父親や、父親の再婚相手にも、同調できると感じるようにさせてくれたのだから、それは、脚本・演出・演技いずれもが良かったんだと思う。

登場人物に対して、本気で“○んでくれ!”って言いたくなるのは、それだけ、演じた役者の演技が素晴らしいってことでもあるしね。

でも、本作には登場人物の誰にも共感できないどころか、○意すらも抱かないんだよね。

それは、脚本や演出の問題だと思う。

そのおかげで、これまで若き演技派だと思っていた清原果耶の演技力に対して疑いを抱くようになってしまったしね。

でも、同じ宮城を舞台に、東日本大震災を題材とした「護られなかった者たちへ」では、酷い脚本・演出であるにもかかわらず、素晴らしい演技を見せているんだよね。

やっぱり、「モネ」の現場って全てがダメダメだったんじゃないかな。
同じコロナのせいで制作スケジュールに影響が出た朝ドラでも、「エール」や「おちょやん」はここまで酷くはなかったしね。

そもそも、作中で主人公は成人しているとはいえ、演じる清原ちゃんはまだ未成年なんだから、いくらフリとはいえ、未成年も見られる時間帯の、しかも、NHKの番組で飲酒シーンなんて普通はダメなはずなんだけれどね。
ミニシアター系の映画とか深夜ドラマならまだしもね。

結局、本作の失敗ってNHK局員スタッフの常識のなさのせいなのでは?

主人公の母親は元小学校教師なのに、自分の元教え子を“生徒”と呼んでいたからね。小学生を“生徒”と呼ぶ教師なんていないよ!小学生は“児童”だからね!
仮に脚本家が間違えて書いてきたとしても、それは間違いだから直しましょうって言うのがプロデューサーや演出家の仕事でしょ!結局、そういう常識を知らないから、おかしなシーンだらけになるんだよね。

あと、クレジットを見ると、色んな自治体の名前が出てくるけれど、そういう地域おこし的な要素のせいで、作品がめちゃくちゃになっているところはあるよね。

色んな自治体が映画やドラマのロケ地に名乗りを上げているけれど、そういった自治体で撮影された作品って大抵つまらないんだよね。
それは、自治体側が“あれをいれてくれ!これをいれてくれ!そうでなければ許可しない”みたいなことを言うから。
本来なら全く違う土地としで描かれても構わないという条件でロケ地は提供するものなのに、多くの自治体が映画やドラマをVP(死語に近いなこの言葉)やCMみたいに思っているんだよね。

おそらく、本作で主人公が、宮城だけでもあちこち本拠地を変えているのは、そういう事情でしょ。普通なら出戻りするにしても、きちんと描くのは実家周辺だけでいいはずだしね。

まぁ、でもこんなクソドラマだったけれど、評価できる点もあるにはあったかな。

田舎者の嫉妬の塊みたいな根性はよく描けていたと思う。
親に外へ出て学んだり働いたりすることを禁じられとか、自らチャンスをつぶしたとか、理由は色々あるが、田舎を出られず、成功を手にすることができなかったのは自分や家族のせいなのに、何故か、外に出ていった人を妬む傾向が強いんだよね。

自分がかつて住んでいた墨田区八広という地域も東京23区内だけれど、そういう田舎者の嫉妬みたいなものが蔓延している土地柄だった。
町工場経営など自営業者が多いし、オンオフのない生活をしているから、冠婚葬祭以外では墨田区から外へ出ない人がほとんどだったしね。

だから、本当、世間知らずなんだけれどね。

でも、本人たちも自分たちが世間を知らないというのはどこかで分かっているし、本当は、外へ出たかったって思いを引きずっているんだよね。

なので、区外に出て働いている人や有名大学や高校に通っている子どもに対して嫉妬心全開で嫌味を言ってくるんだよね。

そういう、田舎者の嫌なところは、この「おかえりモネ」ではよく描かれていたと思う。

仙台とか東京のような都会からやって来た人や、島を出て働いている人に対する視線が冷たいところなんて、本当、リアルに描けていると思う。

若くして漁師になった幼なじみのりょー(ちん)や、家業を継ぐために地元で公務員をやっている妹のみー(ちゃん)の拗らせ具合はそういう田舎気質から来ているし、モネの提案を聞きもせず、勘が全てだとほざく漁協の連中、情報に対する対価を払おうとしない農家の態度もそう。

まぁ、家業を継ぐような形になっている妹が東京に行ってしまった(そして出戻りする)姉にイラつく気持ちは分かるけれどね。

普通はきょうだいの上の方が実家の面倒を押し付けられることが多いが、何故か、この一家は下の子がやっているが…。

うちは妹が好き勝手やって、自分は高齢者の母親と暮らす方になっているが、税金や光熱費の支払いなど面倒なことは全てこっちがやっているし、家賃だって7割、食費だって6割がこっちが出しているのに、母親は出ていった妹となんか、しょっちゅう、コソコソやっているし、時には援助みたいなこともしているっぽいんだよね。
やっぱり、実家の面倒をみている方としては、そうでない方に親が気を回していると腹立つってのはあるよね。

田舎者気質ときょうだいの誰が実家に残るか問題に関してはよく描けていたと思う。

そんな褒め方しかできない「おかえりモネ」だが、一応、最終回まで見て思ったことは、やっぱり、酷いドラマだったというものだった。

本当、酷い最終回だったな。
よく、こんなので絶賛できるよね。絶賛している連中はこれまでに他の映画やドラマ(安達脚本作品を除く)をまともに見たことがないのでは?

最終回前日に、主人公の百音のことをみんながモネと呼ぶのは、幼い頃に妹の未知(みー)が、百音姉ちゃんを略して(というか、舌足らずで?)モネと呼んでしまった(百音姉ちゃん→モモねえ→モネって感じか?)ことに由来するというのが明かされたが(そんなのラスト2話まで秘密にしておくほどのものではない!)、それなのに、最終回でタイトル回収となる「おかえりモネ」というフレーズを言うのが未知ではなく、幼なじみのりょー(ちん)ってどういうことだよ!

前日に感動的に命名の理由を明かしたのは何だったんだよ!

しかも、主題歌「なないろ」はラストシーンの手前になって、やっとかかったが、その曲が流れているシーンで映し出されているのはモネではなく、りょー(ちん)だ。意味不明だ。ジャニオタが喜び絶賛するから、それでヨシとか思っていないか?

それから、2019年の時点で“モネが提案した2年以内に地域気象ビジネスの結果を出せなければ、そのプロジェクトは御破産”という話だったのに、2022年夏になった終盤で、その話は有耶無耶にされ、ビジネスとしては成立していないが、やる気があるからOKみたいな話になっているのも理解不明(朝ドラで放送日よりも先の時代=未来を描いたのって初めてだよね?)。

それから、2019年のシーンでは、パラアスリートの鮫島がパラリンピック代表に選ばれるシーンがあったが、現実世界のように1年遅れで東京五輪・パラリンピックが開催となったのか、作中のパラレル世界では予定通り2020年に開催されたのかはさておき、最終回では2022年夏まで話が進んだのだから、彼女がどうなったのか、五輪・パラリンピックはどうだったのか、説明台詞や写真ですらも明かされないってのは投げっ放しもいいところだ。  

あと、序盤からやたらと、吹奏楽をやっていた中学時代の描写が回想シーンで登場したし、モネと妹や幼なじみとの距離感が出来てしまったのは、大震災発生時にモネが音楽学校の合格発表を見るために仙台にいたので、島にいた妹や幼なじみのような津波体験をしていないというのが理由だったはず(仙台だって被災地で津波の被害を受けたのに、被災地扱いしないのはおかしいとは思うが)。

そして、父親がかつてミュージシャンだったことや、母親とはその時に知り合ったことも明かされたし、その当時からの知り合いであるジャズ喫茶経営者も登場したりしていた。
さらには、菅波の判断ミスで長らく楽曲を演奏することができなかった元患者も登場した。
また、モネがコミュニティFMで活動するようになってからは、BGMに吹奏楽で演っていた曲をかけたりもしていた。

そんな流れがあったので、終盤でモネが久々に中学時代に使っていた楽器を取り出した際には、モネが大震災以降封印していた演奏活動を再開させるのではないか?ラストはかつての吹奏楽仲間である幼なじみや妹たちと演奏会を開いて大団円(勿論、元ミュージシャンの父親も乱入)となるものだと思っていた。

ところが、モネは試し吹きしただけで終わりなんだよね…。

は?

その他にも、東京時代の住居であった銭湯を改造したアパートの住人で精神面のトラブルを抱えている宇田川も結局、最後まで顔を見せないままだったし、意味深な形で登場した東京出身の女子大生や、教師時代の母親の元教え子の女子中学生のその後のフォローもない。

本当、投げっ放しだらけなんだよ、このドラマは!

あと、終盤の2022年夏の世界では、新型コロナウイルスが収束(終息かな?)し、マスクをしなくても生活ができる日々が戻ってきたみたいな描写はあるものの、一言もコロナという言葉を使わないのはおかしいでしょ!
本作をマンセーする連中は、東日本大震災発生の場面を描かないのも、コロナ禍の描写を描かないのも、大震災やコロナで亡くなった方々や、その遺族への配慮だ。素晴らしい対応だみたいに言うけれど、その場面を描かないんだったら、題材として扱うんじゃないって言いたい!

そもそも、モネの婚約者の菅波は医者だろ!なのに、一言もコロナという言葉が出てこないのはおかしいでしょ!

本当、描くべきことを描いていないのに、それに対して“行間を読ませる素晴らしい脚本・演出・演技”とか絶賛している連中は本当、頭が悪いんじゃないかって思う。

安達脚本作品、ジャニーズ出演作品以外の映画やドラマをきちんと見たことがある人なら、誰もがこんなのクソドラマと思うはず。

ところで、主人公が未婚のまま終わるって、朝ドラとしては珍しいパターンだよね。
まぁ、現代では20代で未婚の人は多いし、ましてや、新規ビジネスを開拓しようとしている人(本気度は感じないが)だから、尚更、当たり前なんだけれどね。

というか、モネと菅波はラストでは2年半ぶりの再会だったが、2人とも東京に住んでいた時代はすれ違い生活だったし、モネが帰郷し住む場所が異なるようになってからは、さらに会えない状況が続いていたよね。この2人ってセックスどころか、キスすらしていないのでは?

結婚前で終わったり、キスシーンすらなく終わるというのは、フェミ対応なのか?

とりあえず、自分が全話見た(総集編やスピンオフは未見のものもある)朝ドラの中ではダントツでクソ作品だった。

※写真は国立西洋美術家所蔵 クロード・モネ「睡蓮」(著者撮影)

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