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友達

俳優の実力を測定する物差しとして、舞台出演経験が重視されるのは、米国だろうと英国だろうと日本だろうと変わらないと思う。

だいたい、演技力に関しては、舞台俳優>映画俳優>テレビドラマ俳優という格付けになっているのではないだろうか。
まぁ、舞台は途中で休憩が入るものもあるとはいえ、生でやり直しのきかない状態で数時間演技を続けるのだから、ぶつ切りで撮影する映画やドラマより技術が必要なのは間違いないからね。

ただ、最近は数百人入れるかどうかの小さな劇場てもヘッドセットを装着して演技するのが当たり前のようになっているし、かみまくりのアイドルの舞台も多いから、必ずしも舞台での演技経験者=演技派ではなくなっているけれどね。

まぁ、人気という面でいえば、日本ではドラマ俳優が最も人気があるし、米国では大スター扱いされるのは映画俳優だけれどね。
そして、日本ではミニシアター系作品などを除けば、ドラマも映画も同じような面子ばかりが出ているけれどね。

配信作品に出演する俳優の格付けに関しては、ネトフリなどの配信サービスが日常に溶け込んでいる欧米と、まだ一部のマニアが見ている程度の日本では違うと思う。
また、同じ日本向けの配信作品でもネトフリのような予算や製作スケジュールに余裕がある外資系作品は日本映画と同等かそれ以上の格があるが、国内のプロダクションが作った作品には地上波の深夜ドラマを遥かに下回る予算のものも多い。ぶっちゃけ、YouTubeで見る時間つぶしの動画レベルのものも多い。なので、ここでは配信作品についての言及はしないことにする。

そうした俳優の格付けからすると、本作が約7年ぶりの舞台出演となった有村架純は果たして、どういうポジションに位置するのだろうか?

映画に関しては、コロナの影響で2020年こそ出演映画の公開はなかったが、それ以外の年は毎年コンスタントに出演作が公開されている。

声優やナレーターとしての出演作品、ドキュメンタリーもカウントした公開作品本数は、

2016年 4本
2017年 4本
2018年 2本
2019年 4本
2021年 5本(公開予定含む)
となっている。
※劇場公開作品のない2020年は配信で短編映画2作が公開されている。

コンスタントというより、多いといった方がいいと思う。

また、テレビドラマへの出演についても、2016年以降で連ドラへの出演がなかったのは2017年だけだし、2020年と2021年は複数の連ドラに出演している(2021年は予定含む)。さらに、2020年は単発ドラマやシリーズものへのゲスト出演もしている。

長澤まさみや綾瀬はるか、新垣結衣、宮﨑あおいといったあたりよりかは年下だが、映画、ドラマも含めた出演本数でいえば、彼女たちよりも圧倒的にコンスタントと言えるのではないだろうか。

そんな彼女が久々に舞台に出演ということだが、多少、ぎこちなく感じる場面はあったものの、そんなに舞台に不向きな役者とは感じなかった。まぁ、最初の方は台詞も少なかったので、そんなに演技を絶賛したり、酷評したりするほどのものではないかもしれないが。

そして、ドラマ「姉ちゃんの恋人」で共演した林遣都と再び共演ということで、絡みを期待していたが、ほとんど、絡みらしい絡みはなかったので、ちょっと残念だった。

それから、上演時間が約90分というのはやけに短いなとも思った。
まぁ、座席の両側に衝立があって、すごい圧迫感がするから、この状況での観劇は90分程度が限界だよなという気もしたが。
というか、だったら隔席販売にしろよって感じだな。

そして、この公演のチケット、なかなか当たらなかった上にやっと取れたチケットも最後列というのは、林遣都あたりのファンの女性優遇策なんだろうな…。そして、劇場スタッフがジロジロと監視しているのが気になった。まるで、お前はターゲットではないと言われているようだ。

内容自体に関して言うと、今、この戯曲を上演しようと思ったのは、明らかに2012年12月以降の自民党政権とその支持者(というかネトウヨ)を批判することが目的だよねと感じることができた。

突然押し掛けられた一族に住居や金、恋人などを奪われた主人公が、何かあるたびに、この一族に多数決で物事を決めようと求められ、結局、結託した一族の多数票により負けてしまい、彼等の言いなりになってしまうという描写が何度も出てくる。

この描き方は明らかに選挙で勝ったということは国民の多数決で信を得たということだから、自分たちのやっていることは全て正しく、反対する野党や野党支持者は非国民だという主張をする自民党やネトウヨのメタファーだと思う。

絆(本作では、つながりという言葉が使われていたが)を強調し、その絆の和を乱す人間は非常識な人間だみたいな主張を一族がしていたのも、そうした多数決こそ正義という風潮に対する批判なんだろうね。

また、主人公が一族のおかしさを警察官や管理人、恋人などに主張するものの、逆に主人公の方がおかしな人扱いされてしまうのは、自民党批判をすると、反日・在日扱いされてしまうから、周囲に合わせてなんとなく自民党を支持しているネトウヨではない一般市民の姿のカリカチュア的なもののようにも思えた。

さらに、主人公と同じような乗っ取り被害にあった弁護士がいつの間にか、乗っ取った連中を正当化するように変貌しているのも、いくら政権批判しても、政権側が聞く耳を持たないから疲れてしまい、政権批判どころか、選挙に行くことも面倒くさくなってしまった人たちの姿を重ね合わせているようにも見える。

おそらく、林遣都とか有村架純あたりのファンは、政権批判に○○(作品とか役者)を巻き込むなと言いそうだが、この戯曲はそういう作品だし、そういう感想を持てないんだったら、あなたは演劇を見る資格はないよって言いたいかな。

それはさておき、演出面では謎の演出が多かったなと思った。
別々の場所で展開されているはずのストーリーが同じ舞台でミックスされて演じられていたり、まるで、小さな劇団の演目みたいに演者がセットや小道具の一部を自ら組み立てたり、移動させたりしながら演じているのは、コロナ禍で制限がある中、スムーズにストーリーを進める上で仕方なかったのかもしれないが、登場人物が出入りするドアが普通に縦方向ではなく床にあるという演出は理解できなかった。別に舞台の袖近くにドアのセットを置いておけばいいだけの話だと思うしね。

あと、紐でつながれた洗脳された弁護士の描写も、乗っ取り一族と深くつながる関係になったってことを言いたいんだというのは分かるんだけれど、主人公も徐々に乗っ取られ生活に慣れていったのだから、主人公にも紐にとらわれた描写が必要だったのでは?

《追記》
久しぶりにアイドル絡みでない舞台を見たが、やっぱり、トイレの利用マナーが良いよね。まぁ、アイドル絡みでない舞台はストレート・プレイだろうと、ミュージカルだろうと、歌舞伎だろうと、男の観客が少ないから、男子トイレもすいているんだけれどね。
だから、あいている大便器を使って立って小用を済ます奴もいない。本当、大便器を使うなら座ってしろって思う。便座とか床とかあちこちに尿が飛び散って、本当、不衛生なんだよ!

感染症対策といえば、コロナ禍になっても相変わらず、お約束の複数回カーテンコールをする舞台が多いけれど、1回でいいんじゃないのかな。そういうのが、演劇人、芸能人がコロナ対策をなめくさっているって批判される要因なんだよ…。

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