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2022年1月17日の気持ち|facebookから転載

僕は,全柔連強化委員会に設置されている科学研究部で16年以上活動をしてきた(もちろん,所属の仕事をしながら).重複するが,科学研究部は強化委員会に設置されているので,オリンピックで世界一の成果を上げるという目的を持っている.世界をリードするため,国際情報の収集(海外チームの強化計画とかパフォーマンス研究とか)はもちろん,オープンソースにない情報も収集したし,自分たちで情報を生み出すこともやってきた.パフォーマンス・スポーツでは,「目的=勝利」が大原則なので,それを追求しなければならない.それを崩したら,台本とか八百長があっても,「もっと高尚(その人にとって大切)な目的があるのでそれで良いのです」とかになりかねないし,「私は出場権をすでに得ていたので,相手に勝利を譲りました!相助相譲です!」とか言ったら,成り立たない.そもそも高尚な目的をパフォーマンス・スポーツの目的と並列に設定する必要もなく,嘉納治五郎がいうように,体育・勝負・修心の目的に分けて考えて,その先に究竟の目的を設定できればよいと思う.これを現代社会に応用する方が難しいが,今はそれを必死に考えてる.そもそも,試合を導入した時点で(嘉納の時代から),普及は成功したが稽古の方法論が壊れたことは間違いない.これを,世界に普及された今(強靭なシステムになっている),修復することは不可能に近いし,完全に壊すこともできない.パフォーマンス・スポーツにどっぷり浸かった僕でも,形の競技化は絶対にやってはいけないと思っていたけど,競技化されてしまい,稽古が跡形もなくなってしまった.今では,すべてがトレーニングである.で,とても高尚な人間教育的なものを,すべてスポーツの責任にする人がいるが,意味がわからない.小学校から大学まで何を教育しているのかという話になる.読み書き算を教えて平均化するのがゴールなら,日本沈没である.自分たちができなかったことをスポーツにすり替えていないかと思ってしまう.この点を村田先生が的確に指摘している.柔道をよくしようではなく,「人間」の問題に目を向けよ,ということである.柔道もしくはJUDOというコトバにすり替えて,己に向き合わなかった問題が大きい.とくに既得権益の受益者だが,日本の経済も教育界も同じだから,困った.熱意のある若手も,40になるころには沈黙を覚えてしまう.何をやっても変わらないことを学習するから.それでも僕は抗ってる.

で,未熟な僕だけども,科研の10名くらいのメンバーで,何十万件の情報を蓄積し,分析してきた.これでも東京五輪まで「まだ,できることがあるんじゃないか」と不安や苦しみがあった.

そんな経験をして,今は全柔連のブランディング戦略推進特別委員会の委員になったわけだが,僕は本当に怒りたい.いろんなところに情報の確認をしているが,共通言語化された情報(客観的な情報)が蓄積もされてないし,まとめられてもいない.関係者は今まで何をやってきたのかという話になる.いくつかここで(SNSで)登録者数の補正データを出したが,あんなのはオープンソースの情報収集からグラフを作成して画像にするまで,20-30分もあればできる.あれは,登録人口の減少を示したかったわけではなく,情報を蓄積しておくべき何十年を無駄にしたことを嘆いた投稿である.

結局,誰も気づかないので,はっきり怒りたいことを書いてみた.

これは,僕の怒りの言語化の練習なので,後ほど整理します.

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