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【発表論文】都市化社会におけるアーバン・デザインの方法 ~街づくりに立ち向かう方法は科学や技術の複雑な論理ではない~ その1

掲載誌:商業建築年鑑(昭和46年5月)
髙野が当時関わった「津田沼北口地区再開発計画」での経験を基に書かれた論考。「都市化」という課題に対して、トップダウンの「論理」で進めるのではなく、地域の身近な悩みを聞くことから解いていく必要があることを、独特の論調で説いている。

前文

津田沼は東京と千葉市の中間にある中くらいのターミナル駅である。私がこの総武線を利用して通学していた10数年前までは、どこにでも見られる「田舎町」であった。ところが、ここでもやはりこの数年間に街の様相が一変して、商業や駅前整備を中心とした大規模な再開発の必要にせまられている。

理由や申し上げるまでもなく、周辺人口の急激膨張および生活意識の変化による都市機能の麻ヒである。

私は再開発計画に、アーバン・デザインの立場で参画したのであるが、その仕事の深みに入れば入るほど問題の大きさ、事態の深刻さが肌身に感じられた。

それは、この地区にかかわり合っている人々、例えば地元商店主、権利者、居住者、街の利用者、また私共を含めた関係機関、関係者‥‥‥等、ここにかかわり合う誰もがその心の深層でこの「自分たち」の街が(あるいは環境、生活)が「魅力的であって欲しい。」と願い思いながら、具体的に進行しつつある事実-「街づくり」に対して、本気になって足を踏み入れ、身を投げ入れることができずにその成行を手をこまねいて見ていることしかできないという事実である。そして、かなりの熱意や積極性をその心情として持っていながら、いつのまにか、自身にとって一番わかりやすい危険の少ない安全な場所・・・・・つまり自分のささやかな小さな城にこもってしまうこと。そして、いつも、そこからおずおずと顔を出して様子を見るか、あるいはいつでも「城」に逃げ込める姿勢でしか、その進行している事実「再開発」とかかわり合うことができないでいる状態である。それは私共にしても同様で、本気になればなるほど自身の身の危険を感ずるからである。その危険の相手とは・・・・・なにかわけのわからない状況ー『都市化』・・・・・ではないかと思う。

(そんなことをしているうちに「‥‥‥ああまたか。」というような街ができ上ってしまうのだ)

現在私共は、この状況に対処する方法や、結論をまだ持っていない。今までのものを仮に便宜的に使うにしてももうあまりにも複雑になり過ぎていて、私共の周りの方法としてはまったく使いものにならないのである。もしあるとすれば、身近な問題から1つ1つ解きほぐして行くよりほかに方法はなさそうだ。この都市化の実体が何であるか、現在直面している自分たちの仕事、生活の中から考えて行く以外にない。対処する方法を幼稚でもよいから実践してみるほかにない。

少し独善になるかも知れないが、これまで私共の理解したこの「複雑な状況」に立ち向かう方法は1つあって、それは科学や技術等の複雑な論理ではなく、もっと単純な論理ではないかと考える。わけのわからないものに立ち向かうには大人の眼というより、子供の眼ではないか。

本来、人の身の周りの生活にとって、何も10進法の複雑な数の系列を使わなくとも、だいたいの用が済んでいたのだから、津田沼北口地区再開発計画の作業プロセスの中で考えた、このへんのところを少し整理してまとめて見ることにした。

「都市化」この偉大なる未知

現在、私どもが住んでいる社会は、都市といわず農村といわず「都市化」の方向に進んでおりそのテンポもさらに加速を増してきているようである。人々は都市に集まり、生活はますます膨張を続け、反面農村では今までの有機的な秩序の基盤が失われて新たな都市型生活への移行を余儀なくされている。

「長靴をはいた女の子」という童話はあっただろうか‥‥‥?

着ぶくれ通勤電車の押しくらまんじゅうのもみ合いの中で1枚の紙きれが静かに下を見下している。その紙の中を目が通ると、何か、あの「不思議の国のアリス」の鏡のように、不思議の国や思い出の世界に今すぐとんで行けるかのようだ・・・・・。

あるいはこの1枚の紙きれは、「都市化」という怪物君かも知れない。怪物君は、この押しくらまんじゅうを見下せる一番いい場所に陣取って、しかも毎日こう叫んでいるのだ。

「押しくらまんじゅう 押されて泣くな DISCOVER JAPAN!」

アポロ計画がテレビの宇宙中継で放映されて以来、人々の意識の中にあった神秘的な道の世界がまた一つ失われて、地球がますます小さく、また有限であることを、その意識の底で強く思い知らされたに違いない。そしてかつて島倉千代子が唄っていた「‥‥‥地球も小さな星だけど‥‥‥」というセリフの愛らしい宇宙感も月ロケットという巨大な精密機械や、茶の間に置かれたテレビによって見るも無残に打砕かれ、近代科学の味気なさと、地球の狭さをこの目の前でいやというほど見せつけられてしまった。

それからというもの、人々の心の深層に潜んでいた未知の世界に対する大らかな好奇心と、恐れは、もはや神、科学から離れて(もう何が出てきても、たいした驚きや感動を呼びおこさなくなってしまった。)むしろ自分たちの身の周りにおこりつつある異様な変ぼう、つまり「都市化」という何かわけのわからない状況が、新たな「未知」であり神秘的なものとして人々の心の奥におおいかぶさってきている。

あの、かつてのどろどろとした、人の心の「おんねん」ともいう、念仏や御詠歌、あるいは歌祭文の世界、あるいは子供の胸を明るくかきたてた、アフリカ大陸探検、エベレスト登頂、月世界旅行‥‥‥等の神秘の世界にとってかわって、「都市化」という得体の知れない神秘が、われわれの意識の世界に大きくのしかかってきているのだ。

街へでてみよう。仕事をしてみよう。家に帰ってみよう‥‥いちいち例をあげるまでもない。もうすでに、私共の身の周りは「都市化」だらけなのだ。

この不可思議な魅力を持った偉大なる未知、怪物君コンニチワ・・・・・・。

気がついてみたら怪物君の世界だったから、この「都市化」の怪物君がいったいいつの間に、どんな処からどんなふうに現れてきたのかよくわからない。しかしわれわれはもう怪物君の4次元的迷路にはまり込んで、迷子になってしまっているのだ。たしかに仕事においては合理化や、近代化のしもべとなり、イエにおいてはすでに幼児化されてしまったのではないか‥‥‥。

子供の唄で恐縮であるが「ピコットさん」という唄がある。大人にはちょっと意味がわからないのであるが、幼児には結構人気があるようである。

ピコットさんがピコットさんがやってくる
ママがコップにジュースをつぐと
ピコ ピコ ピコ とピコットさんがやってくる

朝10時頃、NHKのブラウン管からよく飛び出して来るのだが、アニメーション入りでうたのおねえさんが、表情豊かに歌っている。たぶん、ピコットさんとは、子供の何かうれしい情感がやってくるのを表現したのだろうが、このピコピコピコの現れ方が可愛らしく面白い。この唄を何げなく聞いているうちに、ひょっとすると、都市化の怪物君もこのピコットさんと同じように私共が何かをする度にピコピコピコと現れてきているのではないか‥‥‥?

例えば、民間デベロッパーが、ハタと何かを考えついた時とかー建設省のお役人が、エヘンと咳ばらいをした時とか、エンジニアが何かを発見した時とか‥‥‥‥。

そうすると、すでにこの怪物君は、大昔からピコピコとやってきていたことになる。

ついでにもう1つ子供の唄を紹介させてほしい。なぜなら子供の感覚は大人のものより単純で、しかも残酷なほど素直であることから、あるいは、この怪物君とのつき合い方を教えてくれるかも知れないからだ。

おきゃくさま   唄 うたのおねえさん
1. おきゃくさまは 「エヘン」
   ドアの前で 「エヘン」
   それからすまして ベルを押す

2. おきゃくさまは 「どうも」
   いすにかけて 「どうも」
   それからぼうやに おみやげだ

3. おきゃくさまは 「なるほど」
   お茶をのんで 「なるほど」
   それからとけいをみて いずれまた

4. おきゃくさまは 「では」
   くつをはいて 「では」
   それからタクシーで いっちゃった

稚拙なアナロジーで申しわけないが、幼児であるかも知れないわれわれにとって、この「おきゃくさま」もまた怪物君である。彼の行動やことばは、あるいはその正体は「エヘン」とか「どうも」とか「なるほど」‥‥‥等のことばの断片と、ぼうやにくれる「おみやげ」によってしか理解されていないのだ。実は、このお客さんは幼児の両親にとって、イヤな客であったのかも知れない。例えば借金取りとか、保険の勧誘とか、ひょっとすると、立ち退き話できた客かも知れないのだ。それにしても、われわれはこの怪物君と、仲良くしたらよいのか、けんかしたらよいのか、いがみ合ったらよいのか、とまどいながら、しかも、もうすでにつき合わざるを得ないのだ。市街地再開発の話もこのへんからはじめなければならないようである。

(つづく)

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