「対応」

 新聞を読んでいたら「大人の対応」の言葉に目が止まった。文脈からすると寛容な「対応」によって事態が打開された、との意味として取れた。しかし、「大人の対応」などは金銭や政治的駆け引きによって解決する物だと私は認識している。逆説的に考えると「子供の対応」の方が解決策を見出すのが簡単だと思っている。ただの言葉の綾であるが、そこにあるのはどんな思考なのかと。少なくとも「対応」する時点で何かしらの問題が発生しているので「大人」と「子供」に分けて表現するのは疑問である。

 個人的な体験談をすると祖父が亡くなった時に親類と遺産相続で揉めた。揉めた原因は祖父の跡を継いだ長男の横暴な遺産管理が元であった。生前贈与によって長男にしか遺産が入らない様にしていたのだ。争った両親から詳しい話を聞いていないので、どんな経緯でそう成ったのかは知らないが、最終的には家庭裁判所に提訴する事態にまで行った。当時、私が高校生頃の事で、四、五年間は定期的に両親は家庭裁判所に出向いて行くのだった。

 それだけなら何処の一族にもありそうな事であるが、一緒に裁判を起こした親類とも金銭的な問題で仲違いした。その親類が我が家に怒鳴り込んで来たのを今でも覚えている。玄関先での怒鳴り声が私の部屋まで届いた。詳しく話の内容を聞き取れなかったが、両親は一方的に訪ねて来た親類の話を聞かないで、「信用できない」と言うだけであった。それに腹が立ったのか「それじゃ話にならねえだろ」と声を荒げる親類だった。

 以上の事があったので「大人の対応」との表現が感覚的に信用できない様に私は成ってしまった。飽くまでも個人的な体験なので、親族と友好な交流をしている人には雲の上の話に感じるだろう。家庭裁判所の和解案を巡って意見の対立が生じた親族、私の両親を含めてだが「金が絡むと醜い争いをする」と高校生の私はそう思ったのだった。それだけ長期に渡って争ったので今では親類との交流は全く無くなってしまい、両親が冠婚葬祭に呼ばれる事は殆ど無い。

 それなので「対応」には意識的に敏感に成ってしまった。大人に成った私だが、他人と接する時に「この人の地雷はどこだろうか」と観察するのだ。「地雷」とは人に触れられたくない嗜好や欠点の意味で用いていた。誰だって他人に知られたくない事はあるだろう。私でも人に言えない悪行などもある。他人と有効な関係を築くのに必要な「対応」の能力が、私には欠けているのかも知れない。

 中学生時代、体育の授業中に柔軟体操をしていたのだが、背中を屈伸している同級生が居た。悪ふざけで背中を強く押したのだが、何と言っているのか聞き取れなかったがその同級生が怒鳴り声を上げたのだった。普段は温和な性格の子だったので、そんな反応をするのかと驚いた。直ぐに謝ったが数日間、彼は機嫌が悪かった。決定的に仲が悪くなった訳ではないが彼は私に対して距離を置く様に成ってしまった。これは「子供の対応」と言えるのかも知れない。

 両親の遺産相続の話と中学生の同級生とを比較して「対応」に付いて考えるとこんな事が言える。大人は金銭問題で動き、子供は感情によって動く。その場合、適切な「対応」を取るにはどうするべきか。と言うか、解決しやすいのは子供の方であろう。一時の感情に任せた怒りならそれを懐柔する術を考えれば良いのだから。しかし、金銭的な問題と成ると妥協点の模索が続く場合となる。その妥協点を見つけるのに五年間、下手をしたら十年間は裁判をしなくては成らない。そう思うと「大人はなんて面倒くさいものなのだ」と、大人である自分を棚に上げて思ってしまう。

 私が経験した範囲での大人と子供の「対応」の違いは以上であるが、社会に出てそれなりに責任がある立場に成ってからの「大人の対応」だと以下の通りに成る。

 以前働いていたのは技術系の職場だったので、問い合わせの電話が掛かって来る事があった。まだ入社して間も無くの頃で、電話に出ると受話器の向こう側に居る人は怒っている様子であった。話を聞くのだが要点を得ない話が続き「対応」に苦慮した。仕方無しに私は「上司に変わりますから」と逃げを言うのだが「たらい回しにするのか」と益々相手を怒らせてしまった。技術的な話なら出来るがクレームの処理は、専門に扱う部署にでも電話して欲しいと心底思った。

 結局、問い合わせの電話と言うかクレームの処理に三十分以上電話口で謝り続けた。そのせいで軽い電話恐怖症とでも言うか、会社に掛かる電話に出るのが億劫に成ってしまった。「大人の対応」としては会社に属している者であるので説明責任はあるが、技術系なので人と接する機会が少なく私には荷が重すぎた。電話の「応対」が下手ですと電話の相手に言いたい気持ちに成るが、それを許す会社など何処にも無いのが現状である。

 社会人として「対応」を求められる時は得てして損な役目の時がある。「自分の仕事ではありません」と言い切って「対応」しない環境に居る人は稀だろう。話を変えるが、父が検査入院した時、看護師の「対応」が普段と変わった。病室から出ては携帯電話で多分、担当医だと思うが連絡していた。当初予定していた内容の検査ではなく、血液検査で異常があり「対応」に苦慮しているのであった。母が「何処か悪いのですか」と看護師に聞くも、明確な返答は無い。

 父の検査入院は緊急入院に変わっていた。極度の貧血状態になり輸血が必要に成ったがその説明は二日程、入院した後に知らされた。その為、当初予定していた検査が出来なくなり、二週間入院していたが担当医が説明しに来る機会が殆ど無かった。母が何度も看護師に父の病状を聞くが結局よく分からないままで、私は「対応」が悪いと思うのだった。

 その様な状況であったが通常の四人部屋が満室なので特別室しかないとの事で、一日一万円の部屋に入る事に成った。その時、念書を書かされたのであった。後で知ったが病院の都合で高額な特別室に入ったのなら、その金を払う必要は無いと。その事を知ったのは念書を書いた後なので、今更「四人部屋と同じ料金にしろ」と言い出せなかった。この様な「対応」の病院だと不信感が募るのは当たり前の話で、以後は別の病院に代えた。

 病院の「対応」の悪さは直ぐに口伝でも広がるので、他の病院に行く事も出来るが説明責任を誰に求めて良いのか不明な組織が多い。一々書かないがニュースを見ると「対応」とも言えない内容を長々と喋り「説明責任は誰にあるのか」と聞けば、逸らかすのが「大人の対応」として見かける。この場合の「大人の対応」とは責任の所在を有耶無耶にする為に機能している。責任を伴わない「対応」程、悪質なものはないと言いたい。

 しかし、自分はどうなのかと問いかけると、歯切れの悪い言葉しか出て来ない時がある。若い頃、会社の若い女性が好意を持って接して来た。詳しくは書かないが旅館で一緒に寝た事がある。誰も信じないだろうが、酒をしこたま呑んで居たので記憶が殆ど無い。それなので所謂、男女の関係には成っていないと思う。女性の方もその後、特に態度が変わる事も無かったので今でも謎なのだが。「記憶にございません」と責任者などが言うセリフを使わせてもらうが、その女性から何かしらの「対応」を求められたらと思うと恐ろしくもなる。

 私の爛れた女遍歴を読んで面白いのかは分からないが、一度だけ酔った勢いで女を殴った事がある。これも飲み会の席で記憶が曖昧なのだが、「何か気に食わない」と思ったのだろう肩だったか頭だったか忘れたが、結構強く殴ってしまった。その女性とは職場が同じだったので、その事があってからは口を利いてもらえなくなった。言い訳だが殴った私が一番悪い。その時、私はまるで子供の様に燥いで居たのだろう。しかし、それに対して口を利かなくなるのは大人げないのではと。何と言っても殴った私が一番悪いが、私も彼女も「子供の対応」だったのだ。

 私は大人に成りきれて居ないだけなのかも知れない。新聞を読んでは、ちょっとした言葉使いが気に成り、こんな事を書いてしまうのだから。しかし、心に余裕が無いと誠実な「対応」が出来ないのではないかと思える。日々、仕事に追われている人は今日熟す仕事の事で頭が一杯になっている。そんな所に唐突にクレーム処理の仕事が入って来れば、真面な「対応」が出来る訳がない。「対応」とは求める側の度量によって左右される物かと思えた。

 遺産相続では貰うのが当たり前、組織は説明する責任を放棄する、女性には我儘に接して良い。こう書くと何ともゲスな人間だろうかと思えて来る。そんな人に成りたくないとは誰しも思うだろうが、社会に出ると人は変わってしまう時がある。私は聖人君子に成りたい訳でもないので出来る限り本当の事を書いているが、それが免罪符だと思える様では人として失格なのだろう。他方、無理難題な事を要求する「対応」には毅然とした「対応」もあるだろうとも思っている。

 会社に勤めて間もないのに、上司の知人が経営している生命保険へ加入する様に言われた。ただのアルバイト勤めの私にだ。薄給なのは知っているはずで生命保険に入る余裕は無いと気付かないのが不思議だ。そして、その上司は勝手に話を進めていてパンフレットを持参して来るのだった。その時、私は「生命保険の加入料は会社が負担するのですか」と聞きたかった。そんな事は何も言わずに命令口調で生命保険に加入しろと言う上司に、私は「会社辞めます」の一言で「対応」した。

 急に会社を辞めるのが正しい社会人なのかと聞かれると、大概の人は間違っていると言うだろう。多分、その上司も何が原因で私が辞めたのか分かっていないだろう。分かるようなら初めから保険の勧誘などして来ない。辞めた後に「あいつは子供みたいな対応をして」くらいの感想をその上司は持ったかも知れない。私としては「子供の対応」と言われても良いのだ。少なくとも「対応」はした。それが毅然としていたかは分からない。と言うか、何が適切かは自分で判断する事ではないと思っている。

 「礼には礼を尽くせ」と母からよく言われた。それに準えれば「誠意ある対応には誠意をもって返す」と言う事かと思える。自分の都合を優先させて相手の事を考えない「対応」では有効な対人関係は作れない。それは大人だろうが子供だろうが関係無く、人としての基本ではないだろうか。それが一番難しいのは分かっているが。

 「対応」を履き違えている人が多すぎる気がする。それは自分の望む「対応」を如何に引きずり出すかと、相手を見下している場合が見られる。それではなく単純に自分がされて喜ぶ「対応」とは何かと考えられれば、自ずと答えは出てくる。それなので私の対応は相手を見て決めている。単純に金銭の遣り取りだけなら、その人と深く関わらない様にする。女性の場合は難しい。それが恋心惹かれる人ならば尚更である。

 男が女を語るのは無意味だと知っては居るが、語らずにはいられない。それは「あの時、ああすれば良かった」との思いがあるからだろう。何時も悟った様に振る舞っていても、女の前では私は無力である。女が何を求めているのか一生解らないで終わるだろう。もし解ってしまえば、それは「大人の対応」として処理してしまうのだから。中年男の恋心など醜いものだが、それすら無くなっては生きる張り合いがない。

 精々、女性の前で私は誠実な男を気取るのであった。社会人としては失格だが、それくらいは私に出来る数少ない「対応」であるのだから。それが「大人の対応」と言えるのかは解らないが。

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