「苛立ち」

 「自分の思い通りに成らないと苛立ちを覚える」と言えば誰にでも当て嵌まる事だろうが、終始「苛立ち」を持って居る人と一緒だと、自分も苛立って来る。負の感情に他人を巻き込むのを良しとする人が居たら、その場から逃げ出すのが一番良いが、得てして難しい場合が多い。此処では「苛立ち」の解消方法には触れないので、その様な記事が読みたい人は他に幾らでもあるので、そちらを読む事を勧める。

 先ずは個人的な話をすると技術系の職場で働いて居たが、人事異動で事務に回された。その時にストレスから胃潰瘍を発症して、これ以上働くのが困難な状態に成った。詳細は省くが「狭い事務所の中で一日中過ごすのが私には向かない」と思い辞職する事と成った。技術系が良かったかと言うと、それも嘘に成るので結局の所は遅かれ早かれ辞表を出すのは目に見えて居た。とは言え技術系で十年以上も勤務して居たので、他に自分に合う転職の当ても無かった。

 ストレスから「事務仕事はできない」と思い込んでいたので、技術系の再就職先を探すのだが目ぼしい求人は無かった。飲食店などで無料配布の求人募集誌を見るのだが、コンビニやファーストフード店の募集くらいしか載っていないので、暗澹たる気持ちに成って来る。その中に電話オペレーターの仕事があったので出来るかと思ったが、よく読んでみると時給が安く、全国各地からクレームの電話が掛かって来る様な仕事であった。

 対人関係に疲れていた私は人と接しない様な仕事を探していたが、日雇いの土木作業員くらいしか該当する物はない。それとて心身ともに疲弊していた私には務まらない様に思え、終いには「半年くらい休もう」と思ってしまった。事実、半年間は特に何もしないで暮らしていた。それも今まで蓄えた貯金があったので出来たのだったが、何時までもそんな状況ではいけないと思い、暮らしていた北関東の田舎から都会に出た。

 その後は特に書く事が無い。都会に出た所で対人関係は付いて回るので、その度に強いストレスを感じてしまい酒に溺れる毎日が続いた。都会にも見切りを付けて田舎に帰り、アルバイトをして暮らしているのが現状である。そんな私なので「苛立ち」を感じたら逃げ出すのは当たり前だと思って居る。要らぬストレスから逃れる為なら「社会人失格」と烙印を押されても良いとさえ思っている。

 人は何故、ストレスから「苛立ち」を感じるのだろうか。「自分が置かれて居る場所に不満があるからだ」と言ってしまうとそれで話が終わってしまうので、経験から感じた事を書いてみる。ただ書いて置くが「苛立ち」を感じている私が、誰かの「苛立ち」の原因と成っている時もあっただろう。被害者面をして「こんな酷い職場があった」と糾弾したい訳ではない。飽くまでも「苛立ち」の発生する一端は何処にあるのか、と考え書いている。

 技術系の職場で発達障害と言える人と仕事をして居た。発達障害と言うと差別を助長しかねない表現であるが、そう表すしか私には思い付かない。今では使われない表現にすれば「窓際族」とも言えるが。その人は兎に角、仕事が出来ない。私の父と同年代だったが何をしても真面に出来る事が無いのだった。自動車の運転も出来ないので独りで出張にも行けない、単純作業であっても必ず失敗する、勿論パソコンは使えない。

 その人と同年代の職員は課長くらいの役職に就いているが、出世する要素は何一つ無く「会社のお荷物」と新入社員からも馬鹿にされていたのだった。私は運悪くその人の「部下」と言うよりは「お世話係」の方が適切だが、に成ってしまった。その時に「何で俺がアイツの世話をしなくてはいけないんだ」と強い「苛立ち」を感じるのだった。それと同時にその人と同列に見られる事に恐怖すら感じるのだった。

 人間は限界を超えた「苛立ち」や「ストレス」を抱え込むと頭が狂いそうに成る。と言うか、そう思っている時点で何処かしら異常を来していると言えるだろう。職場に行くと嫌でもその人と顔を合わせる。その人は自分の立場を知っている為か無口であったが、何かの拍子で頭を強く掻き毟るので、始めて見た時は「発狂でもしたのか」と思った。しかし、その人も職場に居る事に「苛立ち」を感じていると、今ではそう思える様に成ったが。

 その人とは二年間一緒に働いていたが「苛立ちの連鎖」と言えば良いのか、私は不機嫌を通り越して精神に異常を来して不眠症と成ってしまった。精神科医から薬を処方してもらう事が出来たので、それでも会社に行っていたが感情をコントロールするのが困難に成って行った。物音に敏感に成り、ちょっとした事で「苛立ち」、家に帰ってもそれが続いて休日に成っても何処かに遊びに行く気力すら無くなって居た。

 職場の休憩時間には近くに田園があるので逃げる様にして行ったが、ある時に叫び声を上げた。周りには人影も無いので怪しまれる事は無いと分かっていたが、その時の感情を表す言葉を知らない。強いて上げれば「絶望の雄叫び」と言えるかも知れない。完全に自我が崩壊したのだった。その事を誰かに打ち明けられたら良かったのかも知れないが、極度の対人恐怖症も患って居たので何も言えずに居た。

 人事異動の希望は上司に伝えていたが受理される事はなく、何の対応も成されないまま月日が過ぎていった。その時点で会社を辞職していれば良かったのかも知れない。精神衛生上、劣悪な環境に居るのは心身ともに壊れて行くのだから、誰に引き留められ様とも辞職するべきだったと。だが、急に退職する職員が出ると「上司の査定に影響が出る」くらいは知っていたので遠慮して言い出せなかった。

 そんな職場から事務系に配置転換された時は正直言って安堵した。しかし、同じ事が待っていた。慣れない仕事と更に暴言を吐く上司の下で、私は又しても身体を悪くしてしまった。その時は「もう形振りかまってられない。すぐに辞めよう」と思い、辞職の意思を上司に伝えるのだった。その上司は事も無げに受理したが「三月まで働いてほしい。その後に退職する事にしてくれ」と言い出すのだった。

 そう言われたが私としては「今すぐにでも辞めたい」と強気な発言をした。会社を辞める時に成って始めて自分の意思を貫く必要性を感じるのだった。それでも辞職が受理されるまで三ヶ月はかかり、嫌でも職場に行かなくては成らなかった。はっきり言ってしまうと、辞める人間が真面目に働く事は無い。私も例に漏れずに溜まっている有給休暇を使って、会社の事など知らないと言った感じで過ごすのだった。その上司は私に対して「苛立ち」を感じていたかも知れないが。

 結局、その会社には十年以上勤務していたが、良かった思い出は少ない。全く無いと書きたい所だが同期と夜通し酒を呑んで遊んだ事もあったので、仕事以外では楽しかった思い出はある。辞職してからもう十数年も経つが、ふと同期や仲の良かった先輩はどうして居るのかと気には成る。私と同じ様に辞職すると言って居た先輩の事が一番気に成って居る。辞職せずにまだ会社に残っていれば、それなりの役職に就いて居るだろう。

 私達は会社と言う水槽の中で泳いで居るだけなのだろう。熱帯魚を飼って居る人が言うには「狭い水槽だと魚たちがイジメをする」と。そうなのだ、私は会社の中に放り込まれた小さな魚に過ぎない。それが「狭い会社」だったのが不幸の始まりだったのだ。ただ、魚と違ってそこから逃げ出す事が出来るのだ。それを誰に咎められても構わない気持ちに成れば良いのだ。それが出来ない社会こそ唾棄すべきものだと。そうでなければ「苛立ち」に塗れて生きて行くしかない。

 記憶は時に美化して覚えている場合があるが、私はどうも悪かった事をよく覚えている様だ。もう十年以上も前の事なのに未だに鮮明に覚えて居るのだから。それで思い出しては「苛立ち」を覚える。それは子供の時からの癖である。一度信じた事を疑う癖が私にはあった。小学校の時の話。養護学校の生徒と交流会が催されて強制的に参加させられた。催しの意図としては「障害のある人を差別しない」との事だろう。

 小学校では「差別の無い社会を」と教え込まれるが、疑問に思う事ばかりだった。それは親類に血の繋がらない障害者が居た為だ。子供の時は彼の存在が怖かった。理由は単純で自分よりも年上の大人なのに結婚もしていなく、頓に農作業をさせられて居たからだ。詳細な事は知らないが、農家では人手が必要な作業が多い。その為、例え障害者でも労働力として数えられて居たのだろう。

 親類の話では彼は五歳児くらいの知能しかないそうで、祖父母が存命の時代に遠方の知人から貰い受けたと。彼は言葉を話す事をしないらしい。単純な会話は出来ると親類は言うが、他人に対しては警戒している為か口を聞かないと。数字は読めないのだが腕時計をしていた。針が十二時を指すと昼飯の時間だと理解するので、農作業を一旦止めて食事を貰いに家に帰る。まだ馬小屋があった時代。流石にもう馬を飼育はしていないが、彼の部屋はそこだった。親類の居る時だけ母屋に上がって来いと、指示されなければ家の中には入って来ない。

 彼が自発的に行動する事は無いので、逐一農作業を指示する必要があるが、一度言われた事は止めろと言うまで続けるそうな。そんな彼を見ているので「差別の無い社会を」と学校で言われても、子供の私は混乱するだけだった。親類が言っていた事に「やさしくしちゃダメ。彼は一度やさしくされると、またしてもらえると思うから」と。それが私の障害者に対する基本的な対応と成った。

 それなので障害者に必要以上に手を差し出す事を私はしない。車椅子の人と擦れ違う時には邪魔に成らない様に避ける事くらいはするが、車椅子を押して目的地まで案内するとの親切心は持ち合わしていない。それ所か「自力で辿り着けなくてはダメだ」との感覚で居る。

 話を以前働いて居た会社での発達障害と思えし職員に戻す。その人の事を「苛立ち」を持って見ていたがそれは一人前の仕事を与えるからで、単純な農作業をする障害者と同列に扱えば「苛立ち」を覚える事は少なかったのではと思える。その職員に人並みの成果を期待する方が間違っているのだ。とは言え、その人にしてみれば障害者扱いされるのは差別だと感じるだろう。けれど一緒に働く人にとっては邪魔をしない様に、部屋の片隅で読書でもしてくれた方が精神衛生は向上する。

 ここで提案なのだが「差別」と「区別」を明確にする必要があると言いたい。私は職場では「技術系で十年間働いた人」と「区別」して欲しかったのだ。それが「不眠症や精神疾患がある人」として「差別」されてしまった。その事に「苛立ち」を覚えるのは当たり前の話だと思うが「自己評価など会社には必要無く、実績だけが全てだ」と言われれば、私はその場を去るしかない。

 「苛立ち」を覚える原因は不当な「差別」によって生み出される。発達障害とレッテルを貼られれば「苛立ち」を超えて「怒り」が湧いて来るだろう。その「怒り」が他人に向けられれば悲劇しか生み出さない。では「怒り」を自分に向けたらどうなるか。私の様に心身ともに壊れてしまうだろう。それなので私は逃げるしか方法がないのだった。ただ、逃げると言っても自分自身から逃げる事は出来ない。

 と成ると、私は自分を証明する為に生きている。明白な「差別」を受けたのなら戦う必要があるが、それを「正義」だとは思わない。「正義」とは個人の経験の中から浮かび上がってくる泡の様な物である。所詮、泡なので一瞬にして消え去る。そんな物を掲げて戦うのでは「苛立ち」しか産まない。人は自分の望んだ通りには生きれないのだから「正義」の名の下に集っても「苛立ち」が待っている。

 「この正義は違う」と思って別の「正義」に鞍替えするくらいの柔軟な考えが必要だろう。一つの「正義」に固執しては要らぬ「苛立ち」を覚えるだけなのだから。「正義」を「区別」するのが私には理想に思えて来る。正義感から「差別感情は無い」と言い切る人を私は信用しない。それは「差別」出来る対象が近くに居ないだけの話だ。また、自分より弱いものをイジメるのは当たり前だと思っている人は、自分がイジメられる側に成る事を想像出来ないだけなのだ。

 私は「苛立ち」を捨てたいが、それで「差別」から開放される訳ではないと知ってしまった。それならば積極的に「区別」するしかないとの考えが湧いて来る。前にも書いたが「他人は他人、されど仲良し」と。そう思えたのなら「苛立ち」を持ったとしても「差別」的な言動には及ばなく成ると思いたい。それは私だけが持つ願望かも知れないが、感情の無い人間は居ないので、自分の置かれた場所に不満を持つのは至極当然だとも思っている。

 「正義」により「差別」されれば人は生きて行けない。「正義」は「区別」を内包しないとすると、絶対的な力が宿って居ると勘違いしてしまう。「生きづらい」と口に出せるのは、社会を浄化しようとしている誰かが居る証拠かも知れない。そこに「正義」はあるのか、それは分からない。だが「苛立ち」は感情の一つなのだから、それに従わない選択肢もある。私は「苛立ち」を覚えたならその場から去るが、果たしてそれで何かが解決するかは分からない。

 だが、「苛立ち」など一時の泡の様な感情ならば逃げ出す事も必要で、私は非難などはしない。感情的な「正義」や「差別」は身を滅ぼすだけだが、熟慮を重ねた「苛立ち」や「区別」なら、そこには生きる術が隠れて居るかも知れない。

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