まさゆめに佇む。
(この記事のヘッダー画像は、公式サイトから借用しました。Photo: KOBAYASHI Sora)
オリンピック憲章は、
オリンピック・パラリンピックの開催にあたり、教育を含めた文化オリンピアード(文化プログラム)の実施を義務づけている。
つまりオリンピック・パラリンピックは、いささか商業的過ぎるとしても、スポーツと“文化”の祭典なのだ(開催の是非については、ここでは触れない)。
大成功と謳われたロンドン大会(2012年)では、北京オリンピック終了後からの四年間で文化プログラムが17万7,717件実施され、4万400人のアーティストが参加、4,300万人もの人が参加したとされている。
当初の2020東京オリンピックは、このロンドン大会を超える文化プログラムを実施することを目標にしていたと聞いたことがある(数が多ければいいというものではないという意見もあるだろうが)。
東京では、文化オリンピアードとして、東京都と公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京が主催する「Tokyo Tokyo FESTIVAL」が、コロナ禍にできる範囲で実施されている。
2021年7月16日と8月13日に実施された「まさゆめ」は、このフェスティバルに採択された、現代アートチーム目 [mé]によるプロジェクトだ。
世界中から公募によって集められた顔の中から、たった一人の実在する人の顔が東京の空に、理由もなく忽然と浮かぶ。
この顔を見た人は、SNSにその状況をシェアし、いろいろな感想を書き込んでいた。私は実際には出くわしたりはしなかったが、 [mé]の話は事前にオンラインで聞いたりもしたので、おお、ついに浮かんだかと思った。
が、コメントの多くは、理由もわからず突然空に現れた巨大な顔に驚きを表明したものが多かったように思う。当たり前だ。
そんな中で、一つだけ引っかかったコメントがあった。
「悪趣味です」
とその人は言っていた。
つまり、その人にとっては、良い趣味と悪い趣味があって、これは悪いものの類だと。感覚そのままにコメントしただけなのだろうが、正直にいうと、その断定的な物言いに辟易した。
なぜ、その人は悪趣味だと思ったのだろう。そう思わせた、その人の中にある潜在的な価値観とはなんだろう。そう断ずることで、放棄されてしまったものとはなんなんだろう。
わからないものを目の前にして、とりあえず、佇んで見る。そうしたとしても、それは最後までわからないかもしれない。自分の夢ですら支離滅裂なのだから、14歳の少女が見た夢が「まさゆめ」になったからといって、わかるはずもない。
これは、世の中はわかるものだけでできているのではないという証左かもしれない。巨大な謎の顔に睥睨される疲弊都市・東京。そしてそれ自体がフェスティバル。
想いは閉じない。
残念ながら観ることは叶わなかったのだが、話題になった千葉市美術館で開催された [mé]の美術館初個展のタイトルが、彼らが変わらず言い続けていることなのかもしれない。
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