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日記を通じて自分と向き合うことで、言葉と心を守ることができるようになった

3ヶ月くらい前から、日記をつけている。
誰にも急かされることもなく、期待されることもなく、ただ気の向いた時に、心の赴くままに文字を綴る。
こんな体験がいかに贅沢なものであったのかを、私は忘れかけていたのだと実感している。

文章を書くことは幼い頃から好きで、よく読んでいた童話を真似て短い物語を書き散らしていた。
それから、少し長めの小説、そしてギターの音色にのせた歌詞と、形は変われど、言葉を編み出すことの喜びは常に私の隣にあった。
当時は、「自分を表現すること」がペンを走らせる目的であり最大の動機付けでもあったので、他人が読んでどう感じるかを気にしたことは殆どなかった。

ところが、SNSの発達と共に、最近では自分の書いた文章が人の目に触れることも多くなった。
このこと自体はとても喜ばしいのだが、余所行きの顔をした文章というのはどこか他人行儀で、自分で書いておきながら別の人が書いたのではないかと思ってしまうこともある。
見られたい自分を意識してしまったり、自分の文章に触れた他人がどう感じるかを危惧してしまったり。
悶々と考えて文章をこねくり回しているうちに、結局何が書きたかったのか、本当は自分がどう感じているのか、といった本音が、自分が書いた文章に上書きされる感覚に陥ってしまう。

言葉にお化粧を施し、他人から受け入れられる所作を学ばせることを覚えた私は、文章を書くということに、昔のようにときめくものを感じることが少なくなってしまった。
このことに薄々と気がつきながら日々を過ごしていた今年の春、私は精神的な絶不調に襲われた。
この時のnote記事でも少し触れたが、信頼していた人の行動の矛盾に失望し、怒りを覚えてしまったことがいくつか続いたのがきっかけだった。
(今思うと、その人の行動が自分の中の当たり前に沿わなかったため「矛盾」と感じてしまっただけなのだが)
また、同じくらいの時期に、年々酷くなっているホルモンバランスの影響にも苦しめられた。
時期や原因がはっきりしているとはいえ、他人の咳払いにすら怒鳴り返したくなるほどのイライラ、そして合理的なものの見方ができなくなる自分への失望も相まって、本当にひどい精神状態だったと思う。

そんな時、私の頭の中に「日記を書かなければ」という声が唐突に降ってきた。
書いてみようかな、といった軽いノリではなく、ここで書かないと駄目になってしまうくらいの、悲壮感を帯びた使命に似た響きだった。
早速、普段からよく行っている文具屋に仕事終わりに駆け込み、無地のシンプルなノートを購入した。
夜にそのノートを机の上に広げ、心の奥底に沈んでいた言葉が水面に浮かんでくるのを待つこと数分。
ノートは白紙のままだった。
私は対外的に発信する言葉しか生み出せなくなってしまったのか、と焦った後、いや、ノートのデザインが素っ気なさすぎるせいでノート自体に愛着が湧いていないからかもしれないと思い直し、色とりどりのマスキングテープでノートを飾り付けてみた。
その結果、様々な色や模様が主張する、つぎはぎだらけの統一感のないノートが完成した。
本業、副業、趣味、家庭、どの領域においても中途半端なまま揺れ悩む自分の姿を見ているようで、余計に気分が落ち込んだ。

それから、好みのデザインのノートを探す日が続いた。
南の国で見たことのあるような装飾が施されたハードカバーのノート。小さな鍵付きの宝箱のようなノート。好きな画家の絵画をモチーフにした分厚いノート。
どれも素敵ではあるがいまいち決め手に欠けると思っていたところ、iichiという、個人や小規模な作家・生産者さんが生み出した作品を購入できるオンラインショップに辿り着いた。
そこで私の目が引き寄せられたのが、藍染めした和紙を使って、手作業でつくられたノートだった。
今年の3月に、染師修行中の神野さんが藍染めをされているところを撮影させていただいてから、私は藍染の雑貨や服にこれまで以上に心惹かれるようになっていた。
オンラインショップ上のプロフィールによると、藍染めのノートの作家さんは1950年代生まれの方で、身近にある和紙を使って様々な文具・雑貨を手作りされているそう。
「書画以外ではあまり使われなくなってしまった和紙を、現代の生活に合う形で使えないかと考え、文具に行き着きました。(作家さんのプロフィールより抜粋)」という、伝統の保存と再構築という価値観に共感し、このノートにしよう、と心が定まった。

数日後、心待ちにしていたノートが家に届いた。
丁寧な包装を解いてノートを手に取ると、湿度を感じさせるようなざらざらとした手触りに、行き場のない心がぴたりとはまった気がした。
縦書きの達筆な字で綴られた手紙も同封されていて、作家さんの温かなお人柄が伝わってくるようだった。

ノートを開くと、横罫も方眼罫もない、まっさらな白が広がった。
さて何を書こう、と考える前に、ペンが動いていた。
今の時刻。日記を書きたいと思った理由。このノートを買った経緯。優れない体調のこと。写真の仕事のこと。
自分自身に語りかけるような気持ちでペンを走らせていたら、あっという間に2ページ分が文字で埋め尽くされていた。

それから約3ヶ月が経った今も、毎日とまではいかないが、気が向いた時にノートを開いて文章を綴っている。
他人の目を気にすることなく、誰にも言えない感情の渦を紙に吐き出すのは、単純にすっきりするものだ。

更に、書いた日記を時間が経ってから読み返すことで、起きた出来事や自分の感じたことを客観的に見つめ直すことができるようになった。
傷付けられたと感じたことがあったとしても、実は行き違いがあったのではないか?相手にはそんなつもりはなかったのではないか?自分の言い方にも問題があったのではないか?
そんな風に自分自身を少し高いところから観察していると、感情が揺れ動く契機となる出来事や、それに付随して引き起こされる感情の波のパターンも見えてきた。
例えば、私は自分が軽んじられたと感じると相手に敵意を抱きやすい、欠点を指摘されるとまず反論したくなる、予定を詰め込みすぎると好きなことでも楽しめなくなる、など。
自分の性質を意識して生活することで、似たような出来事に遭遇した時、対処すべき方向性が見えやすくなった気がする。

何より、日記を書いているときは、自分に嘘をついたり背伸びをしたりせずに、あるがままの姿で居ることができる。
このノートは大袈裟に言うと、自分だけの言葉と心を守ることができる空間だ。
誰にも侵入されず、誰に傷つけられることもない、私だけの聖域。

他人のためではなく、自分のために言葉と向き合う時間を作ることが今の私には必要なのだと、今回の出来事を通して痛感した。



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