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撮影者と鑑賞者は同一のクオリアを共有できるのか

私の見ている赤い色と、あなたの見ている赤い色は果たして同じ色なのだろうか。

この問いに対する解を証明することはとても難しい。
例えば、1個の林檎を前に、「この色は赤だよね」とお互いに認識を確認できたとしても、それは2人が同じ色を本当の意味で認識しているという証明にはならない。
赤という名前はあくまでラベルであって、質感そのものを説明している訳ではないからだ。

視覚のみならず、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などにおける主観的な体験を伴う質感は「クオリア」と呼ばれている。
考えてみれば、自分と同じ物理現象を体験している他者が自分と同じクオリアを体験している証拠なんてどこにもない。
風鈴の音を心地良いと感じる人もいれば、どこか寂しいと感じる人もいるだろうし、机の表面をつるつるしていると感じる人もいれば、ひんやりしていると感じる人もいるだろう。
クオリアを巡る問いは最大の難問と言われており、多くの哲学者や脳科学者を悩ませ続けているという。

私の写真は「物語性」「透明感」「懐かしさ」「瑞々しさ」といった言葉の引用と共に評価していただけることが多いが、それらの言葉のうち一つを取っても、鑑賞者と私が全く同じクオリアを感じているかどうかの確証は持てない。
他者との間に横たわったクオリアの解離をできる限り最小限に留めるため、私達は「映画のような」「ジブリのような」といった、多くの人間が共通して持っているであろうイメージを具現化した言葉に頼らざるを得ないのだとも思う。

ここまで書いてきたように、色や〜さといった主観的な体験であるクオリアを他者と共有することは、いや、共有できたと確信することは不可能に近い。
だからといって、自分の撮った写真を通じて他者と同じ感覚を分かち合いたい、若しくは思想や主張を伝えたいと願うのは、意味のない独善的で独りよがりな試みなのかというと、それも間違いだと思う。

確かに、撮影者と鑑賞者が、写真を通じて全く同じクオリアを共有することは難しいかもしれない。
しかし鑑賞者は、撮影者の人柄や写真が撮られた背景を知ることによって、そして何より、撮影者の「この感覚を共有したい」「こういったメッセージを伝えたい」という意思を感じ取った時に、その写真の持つ意味や撮影者の意図に近い感覚を想起することができるのだと思う。
また、鑑賞者が一方的に撮影者の意思や情報を受け取るだけではなく、撮影者と鑑賞者が対話をすることで、お互いのクオリアに関する理解を深めることもできるだろう。
相互理解のための対話を重ねた暁には、お互いのクオリアを本当の意味で共有できたか、ということは恐らくそこまで重要ではなく、「共有しようとした」という試みの痕を、私達は愛おしく感じるのだろう。

私は個人的には、自分の撮った写真がどう解釈されようと鑑賞者の自由なので構わないと考えているが、このnoteに想いを綴るようになったのも、心の奥底では、私の写真に込めたクオリアを誰かと共有したいと切望しているのかもしれない。

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