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はじめも、おわりも、いつでもその場所に。

今日もお惣菜を買って帰ろう・・。

残業で遅くなった日は、すっかり疲れて家事はできない。

自宅近くのスーパーで、半額シールの付いたお弁当や惣菜を見比べていくつかをピックアップ。
今週はこれ、何回食べただろうと頭の片隅で考えながら。

少しは栄養バランスというものを意識していたけれど、日々の忙しさで、自炊するより早く休みたいという気持ちが先行する。

時間に余裕のある平日や週末に、好きなパスタはよく作っていたけれど、ほかに何を作っていたのか思い出すのも難しい。

出汁というものもよくわかっていなくて、お味噌汁は沸かしたお湯に少し具を入れて味噌を溶かしただけだった。


料理は面倒くさい。
それが当時の考え。

自分で作ったものはまあまあ美味しいけれど、自分しか食べないのだから、食材の切り方も味つけも適当。雑。


それより、ささっとご飯を済ませて、音楽を聞いたり本を読んだり、ゆっくりした時間を過ごしたい。

そんな、料理との距離感だった。




結婚後も、私の仕事のペースは変わらず、たいてい残業が終わって帰宅した21時以降から夕食の支度。
食べ始めるのは22時になる。

時間と体力に余裕がない時はお惣菜を買って帰ることになり、食事を巡って夫との喧嘩が頻発することに。

仕事と家庭とのバランスが上手く取れないことにイライラ。
心身ともに疲れた夜に、苦手な料理に向き合うことにイライラ。

野菜炒めを作っていたフライパンに涙が落ちていく光景は、今もはっきり脳裏に焼き付いている。


振り返ってみると、結婚後、出産するまでの数年で、料理が‘ストレス’から‘習慣’に変わる。




生活が、人生が激変したのは出産後。
料理との距離感が激変したのは離乳食開始後。

赤ちゃんは待ってはくれない。
離乳食作りも待ってはくれない。

え、私料理が苦手なんですけど、私が作ったこれ、食べてくれるの?
こんな離乳食でいいのかなぁ?

から始まり、

おいおい、私が作るご飯で成長するのかい。

子どもがご飯を食べる姿をじっくり見る余裕が出てきた頃、そんな当たり前の事実に、戸惑いを感じてしまった。

人間を育てている。
生半可な気持ちじゃできない。
でも、ずっと気持ちが張っていたら相当な負担になる。

この矛盾する溝を少しでも埋めたくて、自分なりの模索を始める。

料理とは、人の命を創る行為であるということ。
毎日の生活を創る行為であるということ。

料理が苦手な私にそんな大役が果たせるのか。
いや‥でもやるしかない。

夕食を完食した子どもに背中を押されつつの、消極的前進。




小さい頃は、大人になったら、何か特別なことが待っているような気がしていた。
子どもには見えない何かが。

でも整理してみると、

《子どもの毎日》
朝起きて、ご飯を食べ、遊び、学び、またご飯を食べたらお昼寝。起きたら遊んで、ご飯を食べて、お風呂に入って、おやすみなさい。

《大人の毎日》
朝起きて、ご飯を食べ、家事をし、仕事をし、またご飯を食べて一息つく。その後仕事をして、家事をして、ご飯を食べて、お風呂に入って、おやすみなさい。


繰り返しの毎日である。

でも、この何気ない毎日が奇跡であるということ。
これは大人にならないと見えてこない。


家族と、気のおけない仲間と一緒に、食卓を囲める幸せ。
ママが作ったご飯を、美味しいね、と言い合いながら食べられる幸せ。

毎日色んな出来事があるけれど、結局はここに戻ってくるのだ。

ワイワイガヤガヤのみんなの笑顔も、
悔しくて涙に染められた青春も、
大切な人との最後の晩餐も、
すべてを包み込む要塞のような場所。

身体を整えて、心を整えて。
過去を彩り、未来を創っていく。
一人ひとりの灯りがある場所。


さあ、今日も作って食べよっ。


過去の料理への距離感は、そんな、食への価値観と人生観を創ってくれている。




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