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『私の名はパウリ•マレー』から考える同性婚や選択的夫婦別姓はいかにして実現されるのか

「時代より先を行きすぎた」「時代が追いついていなかった」と言われるほど、名は知られていないが20世紀のアメリカ史はこの人抜きでは語れないと評されるパウリ•マレーの自伝的ドキュメンタリー。パウリの主張で人種差別撤廃を勝ち取り、パウリの行動で性差別撤廃を実現し、パウリが残した論文で21世紀にLGBTQへの配慮や保護が認められる法律が制定されたことは事実であり、歴史を創ったのはこの人。黒人であり、女性であり、LGBTQという3つの当事者として20世紀を生き抜いたパウリの人生はまさしく時代の要請であった。

同性婚も選択的夫婦別姓も、当時の奴隷制や黒人差別、女性参政権などと同様、未来から今を振り返ればそのような議論があったことすら驚くだろうが、その「今」をいかに傍観せず必死で生きた人がいたかという事実を知ることが何より重要。

我々が知ることができるのは文字によってのみ。歴史に残るのは文字による記録があるから。逆に言えば、文字がないとその人を知り得ない。パウリ•マレーがパウリ•マレーであるのは、子どもの頃から死ぬ間際までのすべてを文章や詩と記録して、かつすべて大切に保管したから。シモーヌも同様。子どもの頃から人並み以上の教育を受け、弁護士でもある。その周りには、多くの教育を受けられず、文字にも残らなかった人々の存在にも想像を巡らせねばならない。

最後に出てくるが、問題意識が明確である時、その時代は、人は聴くことより話すことを重視する。もちろんその人たち自身が、当事者であるからだ。何が問題なのかを肌身でわかっている。だが、問題が明確でない場合、問題が多様化し複雑化する時代は、聴くことに力を入れなければならない。想像を巡らせるためにも、聴くことが重要である。当事者であることは、それほど問題ではない。なぜなら、すべての人々の問題の当事者たりえないからだ。ありとあらゆる問題を理解する。そのために行動する。そして、聴く。文字に残す、文章として書き残す。その文章は、同時代を生きる人に伝えることも大事だが、同時に次世代にも伝わることを心がけたい。文字だけは生き続ける。

またパウリが、自分がどんなに差別されてもアメリカを捨てないどころか、愛国心を持ったアメリカ人として自覚するシーンがある。それは、自身のルーツであるガーナに訪れた時。あまりの前近代的な経済や文化、政治体制を目の当たりにしたからだ。もう一度強調したいが、愛国心は相対の産物であり、合衆国憲法を15万回読んだからと言って得られるものではない。国民国家という概念自体が、近代以降のものであり、元は外からの侵略対策であり、傭兵対策であり、家族から広がる郷土愛とも異なる。

多くの学びがあった90分。

高野はやと@江東区