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【掌編】どこの馬の骨

 どこの馬の骨とも分からない。

 この国にはそういう言い方がある。
 だが、この現在の日本で身元を完全に秘匿しておくことはなかなかに困難なことだ。もっともそれだってその気になれば絶対に出来ないと言うことでもないらしい。

 例えば有名な話でSと言う男がいる。
 直接に面識があるわけではないが、彼は住居不定の身元不明の男として捕まった。なんで捕まったんだったかは忘れた。覚えているのは、彼が身元を明かすのをがんとして拒み、Sと言う彼がいた土地の名で呼ばれたと言うことだけだ。
 なぜ彼が名を捨てて家を捨てて、彷徨っていたのかは分からない。なにも分からない。彼が頑として自分の名を秘した理由も分からない。
 もう一つ分かったことは、この治安の良い国でも、まだ何者か分かららない謎の人物であることも出来うる、と言うことか。

 どこか知らない土地に行ってみたい、という他愛もない衝動に突き動かされるとき、そのうち幾たびかに一回くらいは彼のことを思い起こす。
 そしてまた、彼はずっと勾留され続け、謎の人物でありながら既に衆目に晒されて締まった人物であると言うことも考える。
 謎であり続けることは出来ないのかと。

 どこの馬の骨とも知れない、そんな人物はやはり既に滅び絶えてしまったのだろうか。

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