できる、できないは別にして、理想の教育制度を語ろう8
*magenta-hikari様のコメント
樹さん、興味深く拝読しました。
「一人ひとりが自分の考えをもつ。」本当に大切なことですね。
様々な歴史・社会情勢・文化背景をももって、現在の日本の教育があります。
それらを踏まえ、今後も一所集中で、国内の公教育を管理している体制が効果的かどうか、一考の価値があるかもしれません。
私が感じた範囲のことですが、日本の先生方は良くおやりになっているという印象があります。重責な上、負担が重すぎるのに。もっと保護者、コミュニティ、外部に子供達の教育を委託し、慣例の校務を見直して、本来の職務「授業をする」ことにフォーカスできるようになればいいなと思います。
子供・保護者トラブルなども、スクールカウンセラー、福祉施設、警察が介入してもいいのでしょうね。ヨコになる例かもしれませんが不登校問題は、私がいるところでは児童・生徒の不登校状態が続けられないようになっています。(様々な理由により、学校と政府機関、司法が即介入します)
*小鳥遊 樹のコメント
magenta-hikari様、いつも素敵なコメントありがとうございます。
「一人ひとりが自分の考えをもつ。」
自分の考えを、文句ではなく明るく平常心で語れたら良いですね。
*歴史的な背景としては、
日本人は戦中戦後の無力感や罪悪感を、
ずっと引きずっているようなところがあります。
戦争経験者ではなくても敗戦国であることの恐怖感や、
価値観が一変する不安から抜け出していないのです。
過ちを繰り返さないのは、
過ちの中身を知っている人達だからこそ出来ることです。
戦争にしても災害の犠牲にしても風化させないことが大切です。
蓋をしたり、なかったことにしたりしない。
人の痛みも後悔も覚えているし、理解もできる。
その上で、平和を目指すためにしっかり努力する。
このことが大切です。
不幸な歴史を背負っているからこそ出来ることがあるし、
いろんな国に行って平和や安全に貢献している、
先人の存在があるのだと思います。
*文化的な背景としては、
ほんの十数年前まで年功序列型の社会であり、
儒教的な考えの流れから、目上の人を尊敬することや親の存在が絶対でした。
“分をわきまえろ”、“出る杭は打たれる”と、教えられて育っています。
自分ごときが、何かをもの申してはいけないのではないか?という思いに、
耐えに耐えて、口から出す時には文句という形になるのはもったいないことです。
他人に対しても、
誰かが目立った発言をすると、日本人はできない理由探しから入ります。
でも、今この世にない価値観やものを作る時って、
できない理由探しから始めたら絶対に作れないですよね。
前例がないわけだから。
人の言うことにケチをつけるのではなく、
ただ前向きに、今よりもっと良くするのなら、
自分はどっちの方に動きます。を、それぞれが語れば良いだけなのです。
文句だと誰も聞いてくれませんし、
世の中を変えるキッカケにするのが難しいと思うのです。
“社会の空気が、そうなっているから大丈夫なんじゃない”という安心感が、
実際に動いてくれる方達にだって欲しいじゃないですか。
だからこそ、一人ひとりが「物申す権利」をしっかり使って欲しいですね。
これから先の文化的な空気としては、
学歴や職歴や立場など関係なく、誰もが自由に発言することを推進する意識。
それから失敗を容認ではなく、応援する価値観が欲しいです。
わかりやすい例えだと、
「またロケットの打ち上げに失敗したの?
お金が勿体ないからやめなさい!」ではなく、
「またロケットの打ち上げに失敗したの?
ホントに何度も挑戦してスゴイわね。
諦めちゃダメよ。応援しているからね。」という空気が欲しいのです。
*日本の社会情勢としては、
銀行の低金利、少子高齢化、消費税の増税、AIやロボットの導入、宇宙開発など、
さまざまあると思いますが、
社会情勢は私たちの意識が生み出すものだということを
認識することが一番必要とされている気がします。
「どっちに行きたいの?」
「よく分からないからお任せします。」
「ホントにそれで良いの?集めた税金を好きに使うけど大丈夫?」
「どうして私たちのことを考えてくれないの?もう許せない!」
では困ると思うのです。
だからこそ
「こうだったら良いな。こうしてくれると嬉しいな。」を、言い続ける必要があります。
許せない→抗議のデモをしよう→何も変わらなかった→意味がなかった→解散!では勿体無い。
文句ではなく、戦うのでもなく、
「ここに使いたいのです。自分の納めた税金だから。」を、
誰もが笑顔で話す必要があるのです。
その訓練が普段から出来ていないと、
ズルズルと、誰かの少数の人たちの意志で、
望まぬことに使われてしまう可能性があります。
そして今、社会で一番深刻化している子どもの虐待の問題は、
間違った愛情のかけ方をされて、
自分の資質を生きることが出来なかった人が親になり、
子どもの育て方が分からないことにあります。
事件にならないまでも、
そのままであることを愛するのではなく、
条件を満たしている子だけが愛される。
このサイクルが繰り返されると、
社会的なヒステリーが起きて、
不幸な歴史が繰り返されるキッカケになりかねません。
子どもの資質への理解と、
親の社会への安心感を整えることが急務のように思います。
*「今後も一所集中で、国内の公教育を管理している体制が効果的かどうか、
一考の価値がある。」についてですが、
上にあげた、歴史・文化・社会情勢を踏まえ、
公教育のみならず、もっと地方分権化を進めて、
納めた税金が何に使われているのかを、納税者が監視する必要があると思います。
ふるさと納税のように、
ユニークな教育制度を創造する市町村には、
応援金を渡してあげよう。という、
個人の意思が叶えられるような税制になって欲しい。
収入として得たお金をどのように使ったか、どこどこまでも調べられる時代です。
納めた税金がどこでどのように使われているのかも、
ガラス張りできちんと見えないといけない。
制度さえ整えば、逆も簡単に出来るのだと、
それを要求する権利があることを放棄してはならないと思います。
公教育の管理体制については、後日語らせていただきたいと思います。
今日もおかげ様🙏
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