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東京都江戸川区の城・長島高城跡を訪ねる

東京23区の東端に位置する江戸川区。
荒川、江戸川といった大河川の河口部で、南は海に面することから、区の大半は満潮時の平均海水面よりも低い、いわゆる「海抜ゼロメートル地帯」として知られます。そんな低地にも、かつて中世の城があったと伝わります。
ながしまたか城」です。
今回は長島高城とはどんな城だったのか、江戸川区の歴史や実際に訪れた印象とともに紹介してみましょう。

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ところで、今年の6月、『東京の城めぐり』(GB)という本を上梓しました。その中でも長島高城を取り上げましたが、なにぶん、本は一つの城の記述に字数制限がありますので、必要最低限の情報に留めています。本では書けなかった部分も含め、改めて、解説してみることにします。

江戸川区周辺は台地から離れた低地

江戸川区のあたりは、5,000年前頃までは海の底でした。当時の陸地といえば、現在の武蔵野台地や多摩丘陵、大宮台地などの高地で、3,000年前頃から地盤の隆起や川が運んだ土砂が堆積して、次第に陸地化が進んだと考えられています。ちなみに西からのびた台地が終わる部分は、多くがぜつじょう台地という形状になっており、城を築くのに向いた地形であるため、中世には多数の城が築かれました。が、江戸川区の周辺は台地から離れた東側の低地なので、舌状台地もありません。

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江戸川区の一帯に人々が暮らし始めるのは、約1,700年前の古墳時代頃からとされます。史料上の記録としては、奈良時代の養老5年(721)の戸籍で、下総しもうさのくにかつしかおおじま郷に、こうなかむらしままたの3つの里(は最小の地方行政区画で、50戸で1里)があり、甲和里はのちのいわ、嶋又里はしばまたではないかとも考えられています。

下総国葛飾郡は、ふと(現在の江戸川)の両岸に広がる地域で、東京都、埼玉県、千葉県、茨城県にまたがった、南北に長い郡でした。その後、太日川の東をかっとう、西を西さいと呼ぶようになります。現在の江戸川区は、葛西に含まれていました。

葛西氏、上杉氏、千葉氏、北条氏

平安時代の末頃、葛西を領したのがかんへいの血筋のちち氏の一族、しまです。豊島きよもとの息子きよしげは、父より葛西を受け継いで、葛西三郎清重と名乗ります。葛西清重はみなもとのよりともを支えて数々の武功を立てたため、頼朝より奥州のざわ郡、いわ郡(いずれも現在の岩手県内)、鹿じか郡(現在の宮城県内)他を与えられました。葛西氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて葛西を拠点としますが、室町時代に本拠を奥州に移し、戦国時代には東北地方で勢力を保つことになります。

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葛西氏が本拠を移したあとの葛西は、かんとうかんれいうえすぎの支配下となりました。当時、関東は京都の室町幕府が任じたかまくらぼうが統治しており、関東管領は鎌倉公方の補佐役です。また太日川の東、葛東を領するが影響力を持った地域もありました。しかし戦国時代に入ると、相模(神奈川県)の小田原からほうじょうが進出し、上杉氏を破って葛西を支配下に置くことになります。

さて……。では、本題である江戸川区の長島高城は、どこに誰が築いたものなのでしょうか?

湊を押さえた長島氏の城か?

江戸川区東葛西。旧江戸川に浮かぶみょうけんじまの西岸に、神社仏閣が固まっている一角があります。かつて長島と呼ばれた地域です。そして、その中の文亀2年(1502)開山の浄土宗寺院せいこうが、長島高城の中心部であるといわれます。訪問した際、入口の説明板にもそのことが記されていました。寺の周辺には大門・裏門・馬場・堂屋敷・官所といった地名が伝わり、城館が存在したことを裏づけています。ただし、遺構は何もありません。

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清光寺

清光寺の北側には、新義真言宗のさつしょうえん、また西側にはながしまとり神社が鎮座します。これら一帯が、かつての長島高城跡と考えられています。長島香取神社の境内に建つ「長島の碑」にも、この地に長島高城があったことが記されていました。

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長島の碑

また江戸時代のかんえん2年(1749)に青山某が記した『葛飾記』には、「此所は昔、長島殿と申す城主の城下のみなとのよし」と書かれており、交通のかなめとなる湊を押さえた場所に、長島を名乗る武士の城があったことをうかがわせます。もっとも長島氏が何者なのか、詳細はわかりません。

一方、戦国時代の北条氏の史料『小田原衆所領役帳』には「一 太田新六郎 かんもん 長島高城」とあり、北条氏支配の頃にも長島高城が存在して、太田新六郎やすすけの所領となっていたことが記されています。太田康資はかの太田どうかんの曾孫で、のちに北条氏から離反しました。長島高城にまつわる史料といえば、今のところこれぐらいなのです。

水運と香取神社

長島氏については後年の江戸時代の史料であるため、どこまで信用できるのかわからない面もありますが、北条氏の史料に「長島高城」と記されている以上、城があったのは事実なのでしょう。『日本城郭大系』(新人物往来社)に「長島屋敷」と紹介されているように、あるいは城というより、屋敷、館とよぶべきものだったのかもしれません。

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ただし、太日川河口のこの付近が長島の湊、もしくは国府の湊(太日川上流に下総の国府があったともいわれます)と呼ばれるように、中世の頃には水運の重要な拠点でした。その湊をにらむための城館が長島高城であったと想像できます。付近には長島香取神社の他にも、下今井香取神社があります。香取神社といえば下総一宮の香取神宮(千葉県香取市)が知られますが、中世の頃に香取神社は水運のせきせん(通行税のこと)を徴収する権利を持っていました。つまり長島は、関が置かれるほどの水運の要所であったことの裏づけとなるのです。

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そんなことを考えながら住宅地となった微高地の長島周辺を歩くと、にわかに水の香りが漂ってくるような気がしました。川に囲まれ海に面した江戸川区ならではの城が、長島高城跡といえるのではないでしょうか。


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