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大奥怪談 消えた大奥女中と天守台の怪

およそ3,000人もの女性が暮らしていたという、男子禁制の女の園、江戸城大奥。歴代の将軍を取り巻いて、さまざまな愛憎劇の舞台であった場所だけに、怪異ともいうべき恐ろしい話もいくつか言い伝えられています。今回は失踪し、3日後に無残な姿で見つかった大奥女中の話を紹介してみましょう。

江戸城と大奥

話に入る前に、江戸城大奥について、簡単に説明します。
江戸城といえば、現在の皇居。かつてはとくがわ将軍家の居城であり、幕府の諸役人がめて政策を決定する、徳川幕府の政治の中心地でした。江戸城は日本最大の城であり、中心部は本丸、二の丸、三の丸、西の丸、北の丸、ふきあげなど、複数の「曲輪くるわ」と呼ばれる区画で構成されています。中でも最も重要な場所が本丸で、本丸内に築かれた本丸殿てんで将軍は暮らしていました。
 
本丸御殿は本丸一杯に建てられており、南からおもてなかおくおおおくの3つのエリアに分かれていました。表は役人や大名などが詰めて、公式行事を行う場所、中奥は将軍の執務場所兼プライベート空間、そして中奥よりもさらに奥が大奥で、将軍の正室であるだいどころが仕切る男子禁制のプライベート空間でした。表と中奥が同じ建物内であるのに対し、大奥は北側の別の建物で、廊下で結ばれる以外、表・中奥とはへいで遮断されていました。大奥に入ることのできる成人男性は原則、将軍のみです。なお大奥には将軍、御台所に仕える大奥女中の数がおよそ1,000人。さらに彼女らの使用人まで含めると、合計2,000人から3,000人の女性が生活していた、ともいわれます。
 
大奥の面積は、およそ6,300坪。そこには将軍のしょであるしきや、御台所のプライベートルームの新御殿、重役のとしよりの執務室・どりなどがある「殿てんむき」、大奥女中の宿舎である「ながつぼねむき」、そして男性役人が詰める「ひろしきむき」などの建物がびっしりと建ち並んでいました。もちろん男性役人らの建物と、大奥女中らの建物とは厳重にしゃだんされ、自由に出入りはできません。そして大奥の御殿の北西側に、天守台がありました。江戸城天守はめいれきの大火(明暦3年〈1657年〉)で焼失後、再建されず、石垣のみが残っていました。今回、紹介する話は、大奥女中の宿舎である長局のあたりが舞台です。なお、江戸城本丸跡は現在、皇居ひがしぎょえんとして一般公開されていますので、大奥跡地は自由に訪れて、見学することができます。

本丸絵図

行方不明になった御末

むらえんぎょ『御殿女中』所収の「ぶんせいだん夢物語」の中に記された話です。
 
大奥女中の中でも最下級の役職であるすえは、掃除やみずみなどの雑用を務めます。御末の部屋は、大奥の勝手口である七つ口に面した「した部屋」で、長局の長屋の一階と二階に、それぞれ20畳の大部屋があてがわれ、数人ずつ、御末が雑居していました。
 
文政年間(1818~31)のある年のこと。5月15日の朝、御末のあらしという者の姿が見当たりません。最初のうちは、非番で親しい者の部屋に行って、長話でもしているのだろうと誰も気にしていませんでしたが、一向に帰ってこないので、相部屋の者たちが心配し、心当たりを探しますが見つかりません。やがて日が落ち、夜が更けても、あらしは帰ってきませんでした。
 
翌16日朝、相部屋の御末たちが上役に、あらしが行方不明であることを伝えると、ほどなく御広敷の男性役人がぐみどうしんらを従えて大奥に入り、長局内の25ヵ所の井戸をはじめ、各部屋の天井裏や縁の下まで、大騒ぎしてくまなく探します。しかし、見つかりません。
 
16日も17日も再三探しますが見つからず、これは重大な事件であると、大奥では各出入口を管理する使つかいばんに10人ほどの人数を添えて、昼夜を問わず出入口を厳重に固めさせました。

「千代田之大奥」(国立国会図書館デジタルコレクション)

あらしの姿が見えなくなった15日から3日目、18日の夜八つ(午前2時頃)のことです。
大奥北西の天守台の下で見張りを務める10人の者たちの頭の上から、なんともいえないしわがれた声が聞こえてきました。
「あらしはここに、ここに」
次の瞬間、どさり、と見張り番の者たちの目前に、暗闇から人が降ってきました。頭から逆さに落ちてきたのは、行方不明だった御末のあらしです。すでに事切れていました。おそらくは、高さ14mの天守台石垣の上から、何者かがあらしの死体を投げ落としたのでしょう。しかし、夜中の天守台に入ることが許される者などいるはずもなく、明らかにじんがいの者のしわざであると直感した見張りの者たちは、そうったといいます。あらしは、全身爪でかきむしられたかのような傷で血にまみれ、目もあてられない姿でした。

天守台

仕方なく大奥の者たちは、あらしを小さなひつに入れた上でに乗せ、病人のようによそおって、一室に運び入れました。そこであらしの母親が娘の遺体と対面しますが、一目見た母親は気絶してしまいます。大奥の者が母親を介抱し、その後、あらしと母親はそれぞれ駕籠で城を退出しました。 

それにしても、一体何者が、何のためにあらしの命を奪ったのでしょうか。「文政奇談夢物語」によると、あらしは生前、御天守に上ってみたいものだと口癖のように言っていたので、魔物にられたものか、鼻高き神(天狗のことか)のなせるわざだろうかとし、天守台に上りたいなどと、愚かにも大それたことを言うものではない、と結んでいます。 

建物は焼失しているとはいえ、天守台は江戸城のシンボルともいうべき天守を載せていた石垣ですから、大奥と隣接していても、確かに大奥女中がものさんで見物できるものではなかったでしょう。だからこそ、魔物があらしの心のすきをついて、天守台に誘い入れて命を奪ったのかもしれません。 

また戦国時代より、天守の最上階をさい空間としている事例もいくつかあります。天守はそうした神聖な場所でもあるので、見物を望んだことで、まつられていたものの怒りを買ったのかもしれません。 

いずれにせよ、真相は不明です。そもそも「文政奇談夢物語」もまた、誰が記したものかはわからず、江戸城大奥での見聞記録として、女性の筆跡で書かれたものということぐらいしか、伝わっていません。ただ当時、こうした出来事が日常的に語られていたことは間違いないのでしょう。 

現在、天守台は展望台代わりに、誰もが上って、芝生が広がる本丸跡をながめることができます。お出かけの際はぜひ、天守台のすぐ下に、かつては大奥の御殿が建ち並んでいたことを想像してみてください。ただし、石垣から身を乗り出して、下をのぞき込むようなことはあまりしない方がよいでしょう。乗り出した背中をトンと押すような何ものかが、いないとも限りませんので。

 参考文献:三田村鳶魚『御殿女中』(青蛙房)、山本博文『将軍と大奥』(小学館) 他

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