東京都新宿区「神楽坂」にあった城、牛込城を築いたのは誰か
東京都新宿区神楽坂。
坂の中ほどの毘沙門天善国寺を中心に、門前町の賑わいを今に伝え、また一歩路地に入れば、花街の面影を色濃く残す大人の町です。料亭やおしゃれなレストランが静かにたたずむこの地に、実は、中世の城跡の伝承がいくつか存在することをご存じでしょうか。今回は牛込城跡を中心に、城跡とそれにまつわる人々について、探ってみます。
牛込城は遺構のない、伝説的な城…?
JR及び地下鉄の飯田橋駅、もしくは地下鉄の神楽坂駅、牛込神楽坂駅。神楽坂の最寄り駅はいくつかありますが、飯田橋駅から江戸時代につくられたという神楽坂通りの坂を上っていくのが、オーソドックスなアクセスかもしれません。さまざまなお店が並ぶ坂をしばらく上ると、やがて左手に善国寺の赤い門が見えてきます。「神楽坂の毘沙門さま」です。それを過ぎるとほどなく、左側に細い上り坂があります。通称「地蔵坂」。その名は、坂の上にある古刹・光照寺の子安地蔵に由来するのだとか。坂を上ると、左手に光照寺。境内には、出羽松山藩主酒井家一族の墓があります。高台で、かつてはこのあたりから江戸湊を望むことができたとも。そしてこの光照寺の建つ場所こそ、中世の「牛込城」の跡だといわれています。
境内にある新宿区教育委員会の説明板には、次のようにあります。
かつてここに牛込氏の居城があったが、その詳細も築城時期もわからない、ということなのです。私自身、以前より光照寺が牛込城跡だということは知ってはいたものの、遺構はなく、半ば伝説的な城なのだろうと、それ以上のことはあまり気にも留めていませんでした。今回も現地周辺の紹介だけの短い記事にするつもりだったのですが、思わぬことに……。
城に由来するといわれる二つの路地
牛込城の遺構はないものの、城に関わりがあるとされる通りの名前があります。
まず「兵庫横丁」。毘沙門さまから神楽坂通りを挟んで反対側にある、路地の一つです。趣きある石畳で、料亭や著名作家ゆかりの旅館が並ぶ、神楽坂の代表的な路地ですが、一説に兵庫とは牛込城の武器庫に由来するとも。また通りそのものも、鎌倉古道と呼ばれる古い道だといわれます。
もう一つは、「大手門通り」。善国寺と三菱UFJ銀行の間の通りで、「毘沙門横丁」の名の方が一般的かもしれません。城の構造も不明なのに、なぜ大手門の名があるのか、またいつ頃からそう呼ばれているのか、よくわかりません。が、通りを進んでいくと、光照寺のある高台を見上げるかたちになりますので(今は建物でほとんど隠れていますが)、その辺から連想したものかもしれません。
なおNPO法人粋なまちづくり倶楽部監修『神楽坂を良く知る教科書』の中に、牛込城について、次のような記述があります。
かなり詳細に牛込城の城域を特定しています。これが事実であれば、四方ともに沢や崖、谷になっていた天然の要害の地といえるでしょう。地図に落とすと、およそ下のようなエリアとなります。ただこれらの典拠が示されておらず、地形から城域を推測した伝承なのかもしれません。
赤城神社由緒の謎
もう一つ、牛込城と関わりがありそうなのが、光照寺の北西約500m、神楽坂上より早稲田通りを少し進んだ北側に鎮座する、赤城神社です。赤城といえば、群馬県の赤城山。その麓の大胡から戦国時代の天文年間(1532~55)に移ってきたのが大胡氏、のちの牛込氏であると、光照寺の案内板(新宿区教育委員会)にありました。ということは、大胡氏が移ってきた際に、故郷の赤城神社を祀ったのでしょうか。ところが赤城神社のホームページの由緒には、次のようにあります。
由緒によると、赤城神社は戦国時代の天文年間より200年以上も前、鎌倉時代に大胡重治が移住してきて、祀ったのが始まりだというのです。それならば、牛込周辺は鎌倉時代から大胡氏の勢力下だったのでしょうか。そして戦国時代に再び大胡氏が移住してきて、牛込氏を名乗って城を築いた、ということになるのか。ちょっと話が、わかりにくくなってきました。
牛込郷を領した江戸氏とは
まず赤城神社が、大胡氏が移住してきた戦国時代の天文年間より前から牛込に鎮座していたのは間違いないようです。というのも、室町時代の文安元年(1444)に、牛込赤城大明神(のちの赤城神社)に「大般若波羅密多経600巻」が奉納された記録があるからです。赤城大明神は当時、すでに牛込郷の総鎮守でした。牛込郷は、現在の牛込・市谷・戸山一帯を含む、牛込台地を指していたようです。そして「大般若波羅密多経」奉納の大旦那が、平朝臣重方という人物でした。これだけの奉納ができる財力は、牛込郷の最有力者と見てよいでしょう。では、平重方とは誰なのか。最近の研究では、同時代に武蔵国南部(現在の東京都)にいた江戸重方と同一人物と見られています。
ここで唐突に江戸氏が登場しましたが、どんな氏族なのでしょうか。江戸氏は桓武平氏の血筋で、「坂東八平氏」と呼ばれた武士団の一つ、秩父氏の支流の一族でした。秩父重綱の4男・重継が平安時代の末、武蔵国豊島郡江戸郷を所領にして、江戸重継と名乗ります。重継以来、江戸氏は、名前に通字として「重」の字を用いました。重継の息子重長は源頼朝に従い、鎌倉幕府の重鎮となって、子孫は木田見氏、六郷氏、飯倉氏、渋谷氏などに分かれ、江戸周辺に広がっていきました。
南北朝時代の暦応3年(1340)、鎌倉公方足利義詮より、江戸近江権守が、所有者不在となっていた荏原郡牛込郷をあてがわれます。さらに約80年後の応永30年(1423)、江戸大炊助憲重が、江戸氏の本領であった江戸郷に隣接する、豊島郡桜田郷(現在の千代田区霞ヶ関付近)を獲得しました。江戸氏は南北朝時代から室町時代にかけて一貫して鎌倉公方足利氏を支持し、これらの所領獲得は、鎌倉公方からの恩賞であったようです。そして憲重の息子が、赤城大明神に「大般若波羅密多経」を奉納した重方と見られています。いずれにせよ室町時代に、牛込郷と、江戸湊を押さえる江戸郷、桜田郷を領していたのは、江戸氏でした。
ちなみに、当時の江戸郷は、現在の地形とは随分異なります。現在の江戸城跡の東側から大手町あたりまで、海が入り込んで日比谷入江となっており、平川が注ぐ河口付近に江戸湊がありました。入江の東は前島という半島で、現在の銀座や京橋付近は半島でした。この前島を含む、現在の江戸城の北方、神田、水道橋あたりが、かつての江戸郷、その南に隣接するのが桜田郷です。そして桜田郷の西に隣接するのが、牛込郷でした。
牛込の意味と「牛米てんきう」
では、江戸氏が支配する牛込郷の総鎮守が、なぜ赤城大明神なのでしょうか。それは牛込という地名が、ヒントになるのかもしれません。牛込の「込」とは木戸を指し、土手で囲まれた木戸内に牛を追い込むことを意味するといいます。つまり牛込は、牛を放牧する牧のこと。同様に馬の牧を「馬込」「駒込」などと称し、こちらも都内の地名に残っています。牛込の地に、牛の牧がどのくらいの期間あったのかはわかりませんが、牧といえば「群馬」県の名が示す通り、古代から上野国が有名です。あるいは牧の経営に上野国の大胡氏が協力し、赤城神社の由緒にあるように移住してきた者たちがいて、その際に牛込に故郷の赤城神社を祀ったと想像してもおかしくはないでしょう。
南北朝時代に江戸氏が牛込を領したとき、牛の牧がまだ存在したのかはわかりませんが、牛込郷の総鎮守となっていた赤城大明神(赤城神社)を、江戸氏も大切にしました。
一方で江戸氏は、熊野神社も篤く信仰しています。熊野神社の御師(信者に祈禱や案内をする者)が、有力信者である檀那の名を記した「豊島名字之書立」という戦国時代頃の史料があり、そこには江戸氏の同族である豊島氏や、江戸氏の庶流である飯倉、金杉、小日向などの名前が連なりますが、その中に気になる名前が出てきます。「牛米てんきう」。すなわち、牛込典厩です。江戸氏の中で、牛込を名字にした者が現れたのでした。牛込典厩がどんな人物であったのか、残念ながら詳細は不明ですが、牛込と名乗る以上、牛込郷を本拠にした江戸氏の一族と見てよいでしょう。時代的に、牛込赤城大明神に経文を奉納した江戸重方の子孫と思われます。つまり牛込という名字は、上野国から来た大胡氏が名乗る前に、すでに江戸氏が名乗っていたのです。
「要の位置」にあった牛込城
戦国時代に大胡氏が牛込に来る以前に、牛込氏を名乗る江戸氏(牛込流江戸氏)が存在し、牛込郷を本拠にしていたのであれば、牛込城を築いたのも大胡氏ではなく、牛込流江戸氏の可能性が高いのではないでしょうか。もちろん城というより、中世の館と呼んだ方がふさわしいのかもしれません。改めて、牛込城の立地を確認してみましょう。
現在、光照寺が建つ牛込城跡は、牛込台地の高台にあります。北方には平川(現在の神田川)が東に流れ、南に向きをかえて紅葉川(現在の外濠跡)に合流後、さらに日比谷入江へと注ぎます。また芳賀善次郎『旧鎌倉街道 探索の旅 下道編』によると、現在の九段下から軽子坂(神楽坂通りの北を並行して走る)、矢来町をつなぐ鎌倉街道の支道があり、高田馬場で鎌倉街道中道に合流していたといいます。神楽坂の兵庫横丁が鎌倉古道といわれるのは、このためでしょう。なお兵庫横丁の兵庫は、従来説の武器庫ではなく、官職の兵庫頭、兵庫助などを名乗った人物に由来するものかもしれません。いずれにせよ牛込城跡の立地は、平川の江戸湊と結ぶ水運、幹線道路の軽子坂を押さえるものであり、また高台からは江戸湊と、江戸郷、桜田郷を望むことのできる、江戸氏にとっては所領の「要の位置」にあったといえます。
牛込重行と大胡勝行
鎌倉公方足利氏を支える有力な武家であった江戸氏ですが、鎌倉公方と、その補佐役の関東管領上杉氏が対立し、関東の諸勢力を巻き込んで戦う享徳の乱(1455~83)が始まると、力を失っていきます。関東における戦国時代の始まりでした。江戸氏は室町時代、一貫して鎌倉公方足利氏を支持しましたが、足利成氏は鎌倉から下総国古河(現在の茨城県古河市)に移って、古河公方を称し、江戸氏の所領がある武蔵国は、上杉氏の一族である扇谷上杉氏の支配下に置かれたのです。そして扇谷上杉家の家臣・太田道灌が、対古河公方の最前線である桜田郷に江戸城を築きました。没落した江戸氏は所領を離れたともいわれますが、牛込城にいた牛込流江戸氏はどうなったのでしょうか。
江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』によると、小田原北条氏の招きに応じて、大胡重行が上野国大胡より牛込に居住し、次の代の大胡勝行が牛込に家名を改めた、とあります。しかし最近の研究では、大胡氏が牛込に来たのは、江戸城にまだ扇谷上杉家の当主・朝興が在城していた頃で、大胡氏は扇谷上杉方として牛込に来たと考えられています。そして大永4年(1524)に北条氏綱が扇谷上杉朝興を破り、江戸城を奪ってから、大胡氏は北条氏の家臣となりました。
天文24年(1555)、史料から大胡勝行が名字を牛込に改めたことが確認できます。ところがそれより30年近くも前、大永6年(1526)の北条氏の朱印状(公式文書)に、勝行の父とされる重行が、大胡ではなく、牛込助五郎(重行)と記されているのです。これは何を意味するのでしょうか。一つ考えられるのは、名字を牛込に改めたのは勝行ではなく、実は父の重行からだったということ。ところがおかしなことに、勝行は大胡勝行と記されているのに、重行は大胡と記されたものは一つもなく、すべて牛込なのです。もし重行が牛込に改めたのだとしたら、勝行が大胡と記されるはずがありません。ここから導き出せるのは、重行は大胡氏ではなく、牛込流江戸氏の江戸重行だったという可能性でしょう。重行の「重」は、江戸氏の通字でもあります。そして扇谷上杉氏の台頭で没落した牛込流江戸氏が、牛込城で命脈を保っていたところに、何らかの事情で上野国から大胡勝行が移住してきて、牛込重行は勝行を養子に迎え、牛込氏の名跡と、牛込城をはじめ残っていた江戸氏の所領を譲った、ということではなかったか。なお牛込勝行はその後、北条氏が滅亡すると徳川家康に仕え、牛込氏は徳川の旗本となりました。
牛込城にまつわる牛込流江戸氏を中心に、牛込城がどんな性格の城館であったのか、推測をまじえつつ探ってみました。今もにぎわう神楽坂に、かつてこうした人々が生きていたことを知ると、少し印象も変わってくるのかもしれません。
参考文献・資料:矢島有希彦「牛込流江戸氏と牛込氏」(史苑第59巻2号)、『日本城郭大系5 埼玉・東京』(新人物往来社)、芳賀善次郎『旧鎌倉街道 探索の旅 下道編』(さきたま出版会)、荻窪圭『江戸・東京 古道を歩く』(山川出版社)、NPO法人 粋なまちづくり倶楽部監修『神楽坂を良く知る教科書』、小和田哲男監修、辻明人『東京の城めぐり』(G.B.)、新宿歴史博物館ホームページ、赤城神社ホームページ 他
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