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姫路城大天守最上階に現れる「おさかべ神」の伝説

純白の壮麗な姿で世界に知られる、国宝姫路城。その大天守の最上階に、小ぶりなやしろがあることをご存じでしょうか。まつられているのは、「おさかべ神(刑部、長壁とも)」。今回は歴代城主の前に姿を現し、されたといわれる、おさかべ神の謎を追った記事を紹介します。

姫路城の3つの怖い場所

親戚が姫路にいたので、私は子どもの頃から何度か姫路城を訪れる機会がありました。
小学生の頃は、まだ城の構造も歴史もよくわからず、もっぱらの関心は3つの怖い場所。まずは「はらきりまる」。もともと姫路城にそんな名前の曲輪くるわはなく、実際は井戸曲輪という名称であることがわかっていますが、かつては腹切丸という説明板があり、この場所で多くの武士が切腹したこと、近年まで血の跡が残り、怖ろしい場所だったというニュアンスで解説されていたことを覚えています。もちろんそれは史実ではなく、井戸があるため、切腹して、かいしゃくした首をそこで洗ったのではという想像から生まれた、作り話でした

一時期、腹切丸と称された井戸曲輪

2つ目は「お菊井戸」。かみやまざと曲輪にある井戸で、あおやまてつざんの家来に殺されたおきくという女性の亡霊が夜な夜な井戸の中から現れ、「一枚、二枚」と皿を数えるという「ばんしゅうさらしき」の舞台です。いやいやそれは江戸の「ばんちょう皿屋敷」ではないのか? と、子どもながら親戚に突っ込みを入れたことを覚えています。しかしてんしょう5年(1577)に記された『ちくそう』には、そのモデルとなった話が載っていました。

室町時代、きつ元年(1441)の嘉吉の乱であかまつ氏が一時的に滅びた後、播磨はりま(兵庫県南西部)しゅとなったのがやま氏です。その家老にがきしゅめのすけがいて、播磨の青山に居を構えました。小田垣にははなというめかけがいました。ところが花野にかさでらしん右衛もんという男が言いより、花野がこばむと、笠寺は小田垣家が主家よりたまわった5つのさかずきの一つを盗み出します。そしてその罪を花野になすりつけ、さらには花野を松の木に縛りつけてせっかんしますが、それでも花野は笠寺になびきません。怒った笠寺は花野を斬り殺し、以後、花野の亡霊が夜な夜な現れた、というものです。こうした伝承があることは事実なのですが、それがなぜ「番町皿屋敷」と同じお菊という名になり、盃が皿に変わったのかはよくわかりません。なお、姫路城内の上山里曲輪の井戸が「お菊井戸」として伝説の舞台といわれるようになったのは、「腹切丸」と同様、明治時代以降のことでした。

お菊井戸

『日本妖怪図鑑』に載るおさかべ姫

そして3つ目は、大天守最上階に現れるという「おさかべ姫」です。当時、子どもたちに人気のあった佐藤有文『日本妖怪図鑑』には、イラスト入りで載っていました。その姿はねずみのような顔で、十二ひとえを着ています。「天守に上ったら、本当にいるのかな」と従弟いとこと話しながら、わくわくして最上階に向かいました。が、「おさかべ姫」を祀る神社があるだけで、ひょうけしたことを覚えています。

姫路城の3つの怖い場所の中で、子ども心に一番怖くなかったのが天守最上階でしたが、その後、姫路城の歴史を知るにつれ、腹切丸とお菊井戸は近代につくられた話なのに対し、おさかべ神の伝説は現在の姫路城を築いたいけてるまさの頃までさかのぼり、代々の城主が怖れるような存在だったことがわかりました。むしろおさかべ神が祀られる天守最上階こそ、姫路城で最も怖い場所だったのです。

では、はたしておさかべ神とは何者で、なぜ怖れられたのか。詳細はぜひ和樂webの記事「祟りの発端は豊臣秀吉? 姫路城大天守に祀られる『おさかべ姫』の謎」をお読みください。

おさかべ神の素性

さて、記事はいかがだったでしょうか。
記事中では触れていませんが、おさかべ神の素性について、姫山のぬしのかみとする以外に、奈良時代のこうにん天皇と皇后いのうえないしんのうとの間に生まれた、他戸おさべ親王とする説があります。実在の人物で、光仁天皇をじゅした疑いにより、井上内親王、他戸親王は皇后、皇太子の地位を追われ、幽閉先の大和やまとのくに(奈良県)で同じ日に急死しました。暗殺されたという説が有力で、事の真相は、やまべの親王(のちのかん天皇)のりったいもくむ、ふじわら氏の陰謀ではなかったかといわれます。

その後、天変地異が相次いだため、井上内親王、他戸親王のたたりではないかと怖れられました。京都や奈良のりょう神社に井上内親王、他戸親王が祀られるのは、このためです。しかし、おさかべ神との関わりでいうと、その他戸親王がなぜ播磨の姫山に祀られたのか。正体が他戸親王であれば、おさかべ「姫」ではないのではないか、などといった疑問もわいてきます。おそらく、「おさべ」「おさかべ」と似ていることから、こじつけられたものではなかったでしょうか。

もう一つの説として、古代のみん(中央豪族の私有民)である、刑部おさかべに由来するものという見方があります。播磨の刑部がうじがみとして祀ったのが、おさかべ神ではなかったか、という説です。刑部と姫山との関わりに史料的な裏づけはありませんが、なぜ「おさかべ」と呼ばれるのかを説明する材料にはなりそうです。いずれにせよ、おさかべ神が古くから姫山に鎮座する存在であったことは、間違いないでしょう。

姫路城内の長壁神社遺址碑

いにしえより姫山から播磨を望んでいたおさかべ神は、いま姫路城大天守最上階に鎮座して何を思っているのか。そんなことを想像しながら姫路城を訪ねると、また違った印象が残るのかもしれません。

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