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なぜ福祉に一切興味のなかった僕が、福祉的なことをはじめるに至ったのか?(1)

【概要】
僕は現在とても幸せで、その理由は他者のために生きることに主体性を持っているからです。僕が福祉活動に興味を持ち始めたのは、あるアフリカの女の子からの手紙と絵がきっかけでした。その絵が僕に大きな幸福感を与え、それが僕の人生を大きく変える転換点となりました。僕はこの経験を通じて、福祉とは幸福を追求することだと理解し、今の活動に至ったのです。

幸せ、について僕が思うこと

どうも、近藤です。

唐突ですが、僕はいま、とても幸せです。コロナ禍の影響を強く受けて、会社も僕も、かなり厳しい状況に立たされているにもかかわらず、幸福を強く感じています。それは、たくさんの人々が僕を支援、応援してくださっているからなのです。

主体性をもって、他人のために生きる。

これが幸せになるために大事なことだと、僕は考えています。

「なぜ福祉に一切興味のなかった僕が、福祉的なことをはじめるに至ったのか?」というこの文章のタイトルですが、僕の人生を振り返ったとき、今の僕がやっていることが、究極的にはここに辿り着くと考えるからです。

僕が今とても幸せなのは、「主体性をもって、他人のために生き」ているからに他なりません。

幸せに生きること、というシンプルな目標に向かって、皆さまのヒントになれば幸いと思い、ここに記してゆきます。僕の人生における、今に至るプロセスに、幸せに生きるためのヒントがあるのではないかと考えます。

「福祉」との出会い

さて、ここで僕は「福祉」という言葉を辞書で調べてみました。そしてびっくりしました。福祉とはシンプルに「幸福」という意味だったのです。知りませんでした。皆さん、ご存じでしたか?

福祉という言葉に背負わされた社会的な意味の重みが分かります。

でもまあ、そういう意味において、僕がなぜ福祉的なことを始めたのかが分かってきました。それは福祉にほとんど興味のなかった僕が、ある出来事をきっかけとして、福祉、すなわち「幸福」に興味を抱いたからです。

そのきっかけとは、あるアフリカの女の子からもらった手紙を通じた、ほんのわずかな、でも決して消せない、魂の交流でした。

ここでまずは僕のキャリアを振り返ってみます。それは、福祉とはまったく無関係の人生でした。

「純粋な社会人」としてのキャリアスタート

僕は元々、大学の教員を目指していました。19世紀フランス文学・フランス美術史の研究職です。大学教員になることは、実はいまでもまったく諦めてはいないのですが、その話はまた別の機会に。

それで、大学の先生になるために東京大学大学院の博士課程でせっせと研究していました。小難しい研究書や論文を読んだり、学会に参加したりして、研鑽を積むというわけです。

20代後半に東大を休学してフランスまで留学して、パリ大学のドクターコースにも進み、こちらでもせっせと研究していました。

しかしいろいろと思うところがあり、研究職をそのまま目指すことはいったん辞めて、親友とIT企業を興すことになりました。34歳になる年でした。

現代日本では、誤解のないように伝われば良いのですが、いわゆる「普通に」生きていれば、高校卒業の18歳か、大学卒業の22歳で社会人としてのキャリアをスタートするわけです。

しかし34歳まで学生だったので、長年プロ家庭教師や塾講師をやってはいたのですが、言うなれば「学生との掛け持ち」なので、完全な社会人(とでも言いますかね?)になったのはこれが初めてでした。

名刺交換の仕方も分からず、非常に難儀していたことを今でも思い出します。

しかしそのような「何かふつうではない経歴」を持っていることが、後々、極めて重要な意味を持つことになるとは、その当時は当然、知る由もありませんでした。

人生は面白いですね。オセロみたいに、黒だと思っていたことが白にひっくり返ることがあります。

アフリカの女の子との交流

19歳で会社を興して超大手企業と仕事をしていたコンサルタントの親友。彼とはじめたIT企業で色んなことをやりながら(本当に色んなことです)、ビシバシと仕事を教えてもらいつつ(本当にビシ! バシ!と)、キャリアを少しずつ積み重ねて来ました。

そんなこんなで、あっという間に40歳前半になった頃の話です。

先ほど書いたように、僕は元々、福祉にはほとんど興味がありませんでした。ボランティアにも興味がなかったし、ごくたまに災害寄付をするくらいでした。社会貢献とは何かということも、良く分からなかったのです。

今から思えば自分が生きることに精一杯で、そこまで興味も関心もなく、思いが至らなかったのでしょうね。まったく、不徳の致すところでございます。

しかしあるときネット広告で、アフリカの超貧困層の女の子に月々の寄付を通じて教育資金を賄うという団体の存在を知りました。そして僕は何気なく月々の寄付を行うことにしたのです。

特にアフリカに関心があったわけではありません。超貧困層の人々はアジア全域にも南米にも、それこそ世界中にたくさんいるわけです。

確かに僕は小学生から高校受験生まで塾で勉強をせっせと教えていたわけですが、いわゆる児童福祉に興味があったわけでもありません。

そんな僕が何気なくはじめたのが、アフリカの女の子への寄付でした。

超貧困層に生まれる女の子は、十分な教育も与えられぬまま家事育児に従事させられ、そして児童と呼ばれる年齢で結婚させられます。

現代の我々の感覚からすれば極めて理不尽、しかし数百年前ほどの日本でも貧困層であれば同じようなことが起きていたはずです。僕は、そのような理不尽に対して少しでも寄与できるかもしれないと、ほとんど気まぐれのように寄付を始めました。

「幸福」の発見

その団体では寄付を続けていると、その支援対象となる女の子から手紙が届くという仕組みがあります。なので、寄付をはじめて1年後くらいに、その子から手紙が届きました。まだ8歳くらいの年だったので、文章ではなく、おうちで日常的に使っているという水瓶の絵が送られてきました。

その絵を見た瞬間です。僕の中に、それまでの人生で味わったことのない、言い知れぬ幸福感がやさしく沸き起こったのです。

なんだこれは? 一体この幸せの感情は、なんなのだろうか?

心の底からこみ上げてきて、体全体を包むやさしいぬくもりとあたたかみ。今思えば、水瓶の絵そのものから伝わってくるというより、その奥にある、せっせと絵を描いてくれているときの女の子の気持ち……つまり絵を通じて、彼女の魂と繋がったからなのでしょう。

改めて彼女の写真を見ました。そこには茶色い土の上に無造作に置いたたらいに水を張り、しゃがんで洗濯をしている肌の黒い小さな女の子がいます。その表情は少しだけ硬く、少し戸惑っているように映ります。恐らく知らない支援員が写真を撮ったからでしょう。もしかするとカメラやスマホをあまり見たことがないからかもしれません。

アフリカの貧困層住宅によくあるように、家の作りは大雑把に見え、茶色い土壁はシンプルを超えて質素という言葉が似つかわしいです。

手紙に添えられた解説によると、彼女は1キロメートル離れた水汲み場に行って家族が使う水を汲んでくるのが仕事のようです。徒歩1時間ほどの学校に通い、勉強をがんばっているとのことでした。

鉛筆で描かれた水瓶はおそらく実際は大きなもので、恐らく小さな女の子の胸元くらいの高さです。水は、家族の飲料や料理に使うようです。生活するために大事な水なので、絵のモチーフに使ったのかもしれません。

絵はなかなか味のあるもので、小さな女の子が描いたものとは思えません。恐らく絵を描くのが得意なのでしょう。鉛筆で丁寧に心を込めて描いてくれたことが伝わってきます。その時の息づかいも伝わってくるかのようです。

女の子が一生懸命に描いている様子を、ご両親が横目でちらちらとその様子を伺っています。女の子は水瓶がある台所の、入り口から少ししか日の差さない薄暗い地べたに座り込んで、丁寧に、丁寧に描いてゆきます。

そんなイメージが、僕の中に、一陣の風のように舞い込んできました。

当時の僕にわかったのは「とりあえずなんかようわからんが、めっちゃ幸せな感じがする」ということです。

もうひとつ、わかったことがあります。それは、世界中の多くの人々が、人助けやボランティアをしている、その理由でした。そうか、一銭の得にもならない(失礼)ことを多くの人がやっているのは、こういうことかもしれない、と。

幸せは金では買えない、と言われるゆえんですね。

福祉事業の開始

さて、こういう経験をしたからと言って、僕が「よーし、さっそく慈善事業を始めるぞ!」と前向きになったわけではありません。もしくは「こんな風に幸せになれるんだったら、寄付をしまくるぞ!」となったわけでもありません。ディケンズ『クリスマスキャロル』のスクルージとは違うのです。

しかし今から振り返ってわかるのは、その時のささいな幸福感こそが、僕のその後の人生を大きく変える転換点だったのです。

人生とは不思議なもので、ささいなことが人生を左右することがあります。美空ひばりではありませんが、人生を川の流れにたとえるならば、しかし、それがどんなに小さなものであったとしても、川底に流れる大きなうねりの中では必然に大きな動きに繋がってゆくのです。

例えるなら目に映る川面が静かであっても、その下では大きな流れがうねりとなって川は進んで行きます。僕の味わった幸福感はとても静かで柔らかで、優しいぬくもりであったのですが、同時に、その後の僕を大きく動かす一つの兆しであったように思われます。

もしかすると、今の僕がやっている福祉的な活動のきっかけは、なんでも良かったのかもしれません。シングルマザー等の女性キャリア支援だったり、精神・発達障がい者の就労支援だったり。

僕はキリスト教徒でもなんでもありませんし、どちらかと言えば思想は仏教寄りだと思っていますが、でももしかすると、はるか異国の小さな女の子がもたらしてくれたこの小さな幸福の訪れが、「福音」(古代ギリシャ語euangélion、良い知らせ、が原義)というものだったのかも知れません。

——福音は、必ずもたらされる。心を研ぎ澄ませ、待ちなさい。

そんな教えが、聞こえてきそうです。

(2)に続く

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