残高不足
「残高不足のようです」
運転手が、私を呼びとめた。
ICカードの残高が足りなかったのだ。
「あれ?」
「ええと、こちらに紙幣を投入されて、もう一度、ここへかざしてください」
残高不足?
まだ、少しは残っていたはずだが――
いや。
急げ。
私は、他の客の迷惑にならぬよう、紙幣を投入口におしこみ、カードをポートへかざす。
「はい、結構です」
「どうも――」
まばらに、空席があった。
しかし、後続を待たせた手前、終点まで立つことにした。続く客たちは、我先に座席におさまり、あぶれた人の嘆息をかき消すように、バスは発車した。
それにしても――
まだ考えている。
たしかに、残高があったはずなのだ。
といって、少額だろうが――
しかし、一律240円の運賃が払えないほど、スッカラカンだったとは思えなかった。
おかしいな。
それとも、記憶違いかな。
「…………」
――私は、目をつむった。
カードのことは、忘れよう。
考えても仕様がないではないか。
それから。
私は、いつもの癖だが――俳句をひねったり、小説の筋を考えたりして、暇を潰そうと考えたのである。
俳句。
季語は何にしよう。
小説は――
退職代行サービスというのが近頃あるそうだ。
それで、なにか作ることができないか。
退職代行。
退職代行――
退職代――
季語。
さつき。
ごがつ。
枯渇。
包括。
そのまま――
そのまま、眠ったようであった。
「!」
目を覚ますと、間もなく終点というところだ。
となれば、30分間は意識がなかったのだ。
驚いたことに、私は座席に座っていた。
立つことを選択したのに、である。
車内は満員だった。
その中で、私は座席に腰をおろしている。シートの尻は、温かい。長い時間、ここに座っていたようなのだ。
到着した。
みな、ぞろぞろとバスを降りる。
小休止を経たからだは、軽かった。
頭も冴えたようなのだ。
私は、さっきの残高不足は――
休息の前払いだったのではないかと思った。
やはり、カードに残高があったとしか考えられないからだ。
あるいは、知らぬうちに、カードの残高を錯誤するほど疲れていたのだろうか?
わからない。
わからないけれども――
人混みへ飛びこんだ私のからだは、すこぶる軽かった。
まだ、もう少しがんばれそうなのだ。
カードのことなんか、もうどちらでもよいのであった。
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