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#15 なぜ日本橋周辺に河岸が集まったのか

日本橋界隈と舟運

 陸運と舟運の要衝である日本橋及び周辺の河岸は、物資が集まる物流の集積地であり、人の往来で賑わったという。
 歌川広重の「江戸名所四十八景  日本橋魚市」などの浮世絵でも日本橋川沿いの魚河岸の賑わいと日本橋を渡る人の多さが描かれている。

 日本橋から江戸橋にかけての北岸には魚河岸があり、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚の荷揚げが活発に行われた。
 魚河岸の始まりは、1610年(慶長15年)頃、摂州西成郡佃村から移り住んだ森孫右衛門の次男九左衛門が、将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを一般に販売する許可を得て売り出したという説が有力とされている。
 初期の魚河岸は、漁師が水揚げした魚を並べて売るという簡素なものだったようだ。

 近海諸地方から魚河岸に運搬された魚介類は、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、魚納屋の店先に板舟を並べた売り場を開いて売買を行ったという。

 対岸の日本橋南詰東詰には東仲通りを境に西側が四日市河岸、 東側が木更津河岸といった。
 四日市河岸の周辺一帯は以前、四日市場村といわれ、毎月4の日に市が立ったという話があるそうだ。四日市河岸では、塩漬けや干物が売買されたという。
 木更津河岸は、河岸の使用権が木更津湊の人々に与えられたことから呼ばれるようになったようだ。木更津から江戸湾を通って木更津河岸へ千葉の米、海産物を運んでいたそうだ。

 日本橋の西側には、北詰に品川町裏河岸、北鞘町河岸、南詰に西河岸が並んでいた。江戸橋より東には、末広河岸、鎧河岸、茅場河岸、北新堀河岸、南新堀河岸などの河岸が並ぶなど、日本橋周辺の川岸には河岸が作られ、物資の荷揚げ基地になっていた。

江戸時代の舟運

 江戸に到着した諸国の千石船は、品川湊や佃島の沖辺りに停泊し、そこで荷を茶舟に瀬取して隅田川から日本橋川へと運び込まれ、河岸で荷揚げされた。日本橋川は今日の物流センターのような役割を果たした場所だった。

 江戸時代の舟運は、物資輸送の重要な手段であり、周辺の京橋、本所、深川にも堀(運河)が縦横に廻らされ、舟運によって各地の物資が河岸で陸揚げされていた。
 飯田橋の神楽河岸には平田船で物資が運ばれ、江戸城北西の武家地の荷揚げ場として賑わった。
 各地の幕府領や旗本領からの年貢米は、品川沖で艀船に積み替えられ浅草御蔵の前に着岸され、札差が武士に代わって米の受け取りや運搬・売却代行をした。

 ところで、個人的に気になったのは江戸時代に水先案内人はいなかったのだろうかという点。
 少し調べてみると新潟湊や下関には水先案内人が存在したという記録があるようだ。
 江戸湾ではなぜ水先案内人という職業が出来なかったのだろうか?
 明治時代に作成された「大日本海岸実測図」の「東京海湾第1景」では、北に向かって航行可能だったのは二つの細い水路だけだったことが示されている。
 この水路を案内で出来れば、江戸のより近い場所まで大型船で物資を輸送出来たのではと思うのだが、そうした選択がされなかたっということは、大型船が停泊する場所などの問題もあったということかもしれない。

観光スポットとしての日本橋

 浅井了意が書いた1662年(寛文2年)刊行の「江戸名所記」では、「橋のうへは、貴賤上下のぼる人くだる人、ゆく人帰る人、高のり物人の行通ふ事、蟻の熊野まいりのごとし」と書かれており、17世紀中期には既に、江戸の武士や町人、参勤交代で江戸詰めとなる武士、地方からの環境客など様々な人を迎え入れ、また送り出す場所となったようである。
 つまり、日本橋は江戸時代、一度は行ってみたい都会の観光スポットに早い段階でなっていたのだ。

東海道五十三次 日本橋 朝之景

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