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#14なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その2) 

幕府の金銀山の統轄と交通網整備

 金山、銀山といった鉱物を産出する山は、為政者から重要視されてきた場所だ。
 幕府を開いた家康は、佐渡、土肥(伊豆)、石見、生野(但馬)、足尾などの鉱山資源地の支配力を強化するために、関ヶ原以降、直轄地として管理を開始した。

 佐渡金山は、1601年(慶長6年)に徳川の直轄地として組み込まれ、大久保長安が送り込まれた。同年、北山で金脈が発見されたことで、佐渡金山は江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。17世紀前半は多く産出されたという。
 江戸時代、金の輸送経路は佐渡の小木港から船で出雲崎港へ運ばれ、北国街道を通って途中の御金蔵設置の柏崎や高田などの宿、関川関所を経て長野に入り、長野からは中山道を通って江戸へ輸送されていたという。

 ところで、「全国の金銀山の統轄」や「江戸を中心とする交通網と一里塚の整備」は、大久保長安が担った。
 長安は、1600年(慶長5年)10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、1601年(慶長6年)春に甲斐奉行、8月に石見奉行、1603年(慶長8年)7月に佐渡奉行、12月に所務奉行(後の勘定奉行)、1606年(慶長11年)2月には伊豆奉行を兼務する形で全国の金銀山を統括した。
 また、東海道の宿場整備、東海道、中山道、北陸道の一里塚整備でも大久保長安の名前は入っており、金銀山の統轄と交通網整備が長安という人物を通して一体的に進められたと考えられる。
 江戸時代に用いられた距離単位(里・町・間)も長安が定義したと言われている。

金座と銀座

 金山や銀山が供給した鉱物は貨幣の原材料として使われた訳だが、貨幣の鋳造は金座と銀座が担った。
 金座は、1595年(文禄4年)、家康が京都の後藤庄三郎を招聘し、小判を 鋳造させたことから始るという。
 金座の設置時期については、江戸と京都が慶長年間(1601年?)となっており、駿府は1607年(慶長12年)、佐渡は1621年(元和7年)にそれぞれ設置されている(ただし、駿府は1612年に江戸へ集約)。
 江戸、京都、佐渡に分かれていた原判金の鋳造は、1695年(元禄8年)、慶長金が元禄金に改鋳されるに当たり、江戸に集約している。

 上記を踏まえると、1601年から1695年までは、金を京都にも運ぶルートが必要であり、長安が行った街道整備により運搬ルートが整備されたものと推測される。
 銀座についても、江戸、京都伏見、大坂、駿府、長崎に置かれていたというが、生野銀山、石見銀山などから各銀座に運搬する街道ルートが存在しているはずであり、このあたりを含め、長安はどのような物流網を考え、実行に映したのか興味深い。
 大久保長安については、まだ、調査が不足しているので、改めて探っていきたいと考えている。

 なお、江戸への金の運搬では、荷車での運搬要員が各宿場から10人がかりだされ、1人が前で綱を引き、2人が荷車の前を引き、2人が荷車の後押し。残りの5人は警護兼交替要員となり運搬したという。
 また、佐渡から相川番所の役人4人が付き添い、前後左右を固めて警備したという。 

金座の跡地に建つ日本銀行本店

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