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#13 なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その1)

なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?

 徳川秀忠は家康の命のもと、1604年(慶長9年)から東海道と東山道の一里塚整備に着手しているが、このとき、北陸道の一里塚も整備を開始している。奉行には山本重威と米田正勝をあたらせ、築造を進めたとある。

 ところで、東海道と東山道に加え、なぜ北陸道の一里塚の整備も行ったのだろうか?
 北陸道は、新潟県上越市の高田から滋賀県彦根市の中山道の鳥居本宿までを結ぶ街道で約400kmの距離を有する街道だ。

 1604年時点の情勢を考えると、
 ①街道整備を通した北陸大名(前田家、堀家)に対する牽制
 ②豊臣家との軍事衝突発生に備えた軍用道整備
 ③佐渡金山の直轄地化の影響
などが考えられる。

北陸大名への牽制

 1604年時点の北陸の外様大名は、加賀の前田利長と越後春日山の堀秀治がいた。徳川が北陸道の一里塚を整備するというアクションを取ることで、徳川の世になりつつあるとともに、一里塚整備を通して北陸の情報収集を行っていることを露骨に示していたのではないかと考えられる。

 前田利家が1599年(慶長4年)に没した後、加賀征伐を流布された前田利長は、芳春院(前田利家の正室まつ)を人質として江戸の家康に差し出すなど交戦を回避する策を取っている。
 関ヶ原の戦いでは前田家、堀家のいずれも東軍に組し、所領安堵となっているが、秀吉の恩顧を受けた大名に対する警戒を、徳川政権は怠らなかったと思われる。

 1601年(慶長6年)、関ヶ原の戦いの功により、家康の次男の結城秀康を越前北ノ庄(67万石)に送り込み、前田家への牽制を掛けている。
 その次の手が、一里塚整備により、徳川がいつでも北陸に攻め入れることを示したのではということだ。

 1610年(慶長15年)になると、堀家の内部紛争に乗じて堀秀治亡き後、家督を継いだ堀忠俊を改易し、家康の六男、松平忠輝を越後高田藩主(75万石)として送り込み、金沢の前田家を東西から抑え込む作戦を展開している。加賀の前田家を抑えるためには一族の信頼できる者を配することが必定との考えが働いたのではと思われる。

 こうした一連の対策で、北陸の外様大名を骨抜きしたのではないかと考える。

豊臣家との軍事衝突発生に備えた軍用道整備

 源平合戦の折、源義仲は北陸道を京都へ進軍し、俱利伽羅峠で平家軍を破り、京都になだれ込んだ。
 承久の乱の折、北条泰時は、東海道、東山道、北陸道の三道から総勢19万騎で上皇と対峙した。
 「吾妻鑑」を愛読書とする家康は、古事をどのように捉えていたのだろうか?

 街道を整備するということは、当然、軍用道路としての活用を念頭に入れたものだったと考えるべきで、北陸に配置する武将の動員を前提に整備を進めたと考えるべきだろう。

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