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#31 浮島ヶ原と原宿

宿場として整備される以前の原宿(はらしゅく)は浮島ヶ原(うきしまがはら)と呼ばれ、愛鷹山南麓の沼津市西部から富士市東部にわたって低湿地帯が広がっていた。
愛鷹山系から流れ込む河川の水が集まったことで、浮島沼と呼ばれる沼群が形成されていたのだった。

原宿

原宿は、東海道五十三次の13番目の宿場として設置された宿場で、現在の静岡県沼津市にある。
原宿は規模の小さい宿場であったが、原宿の北側に見える富士山の姿は秀麗で、歌川広重をはじめとして多くの絵師に描かれた景観の地だった。
もともとは現在よりも浜に近い場所にあったが、高波の被害のために1609年(慶長14年)に北側に移転されている。

宿場は、沼津宿からは1.5里(5.9km)、吉原宿までは3里22間(11.8km)
の距離にあり、日本橋からは31里27町(124.7km)の距離にあった。
見附外の町並も含めた宿場の長さは、24町42間(2.7km)あったそうだ。『宿村大概帳』によると、東木戸(見付)の今沢村境(大塚神明神社東)から西木戸の一本松新田(富士浅間神社西まで)までの大塚本田町、東町、西町が宿場の中心地で、見附内の距離は11里(約1.2km)だったそうだ。

1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数398戸、宿内人口は1,939人(男957人、女984人)で、本町に本陣1軒、脇本陣1軒(天保9年焼失)があり、旅籠25軒あったと記録されている。
問屋場は東町と西町の2か所にあって半月交代で勤めていたが、東町の問屋場は焼失している。

渡邉本陣

原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟、且つ義経の兄)の子孫だそうで、代々平左衛門を名乗り幕末に至っている。
原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名や幕府役人等の宿所として本陣となり名主等も勤めていた。
間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6600坪の広大な規模であったそうだ。

間の宿「柏原」

原宿と吉原宿の間は3里22間(11.8km)もの距離があったことから、「柏原」に間の宿(あいのしゅく)があった。
間の宿・柏原は西柏原新田にあり、ちょうど原宿と吉原宿の中間にあたる。
間の宿柏原の成立は江戸時代初期に遡るそうで、1690年(元禄3年)に出版された東海分間絵図に「かしわ原、茶屋かずかず、ここにうなぎあり」と書かれているそうだ。
柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名で、十返舎一九の東海道中膝栗毛の中にも名物のうなぎの蒲焼の話がでてくる。
JR東田子の浦駅近くの西柏原新田に「間宿 柏原本陣跡」と書かれた碑がある。
なお柏原の地名は、平安時代の東海道の柏原駅がこの辺にあったからといわれている。


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