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#32 富士山南麓と吉原宿

富士山南麓の地形と河川

富士山の南に位置する旧東海道の蒲原宿から原宿に掛けての地域は、富士山から流れる河川で出来た沖積平野の地だった。原宿の北に位置する浮島沼は、「諸河川の堆積作用によって次第に泥炭化してゆくが、なおラグーンや沼沢地をとどめ」、「浮島ヶ原」と呼ばれる低湿地帯だ。
この辺りの地名も沼津、吉原=葦原、蒲原=蒲の原など、湿地帯を表す名称が続いている。

富士川の流れは太古は大きく東に蛇行して現在の田子の浦漁港付近は、往時、富士川の本流が流れ込む河口だったそうだが、鎌倉時代に入ると富士川は流れを西へ変えはじめ、もとの河口は水流も穏やかになり渡し舟も容易になったそうだ。

鎌倉時代の1279年(弘安2年)、十六夜日記の著者、藤原為家の側室・阿仏尼は所領紛争の解決のために鎌倉へ向かった際に富士川を渡っている。
その時の彼女の日記には「明けはなれて後、富士川渡る朝川いと寒し、数ふれば十五瀬をぞ渡りぬる」とある。
当時の富士川は、まだ幾筋もの支流をつくりながら、富士市の東の方向へ流れ、川沿いにあたる村々は度重なる洪水に見舞われていたそうだ。

富士川の東側の加島荘と呼ばれていた辺りへは、近在の豪族が戦国から江戸時代に掛けて進出して水田を開墾したそうだが、1621年頃になると古郡重高、重政、重年の父子三代が50年以上の月日を費やして、前後に氾濫時に水流を留める広大な遊水池を有する大規模な堤防「雁堤(かりがねつづみ)」を築き、1670年頃には富士川を直線の流れとなる現在の姿に変えた。

ちなみに東西を結ぶ街道は、古代においては愛鷹山麓に沿った根方街道をとっており、鎌倉以後になってから浜に沿った街道をとるようになったと考えられている。

間の宿 柏原宿

旧東海道の原宿と吉原宿の間には、柏原宿と呼ばれる間の宿があった。
原宿と吉原宿の間は3里22間(11.8km)あったことから、その中間に休憩所として間の宿が出来たということらしい。
柏原宿は、現在のJR東田子の浦駅の西側あたりにあったそうで、9軒の茶屋があったとされる。

富士市の「広報ふじ昭和56年2月5日号」に柏原宿についての記事が掲載されており、柏原宿が「浮島沼でとれたうなぎやなまずの蒲焼を名物に繁昌」していたという。
同広報には、間の宿柏原の成立が江戸時代の初期にさかのぼること、1690年(元禄3年)に出版された東海分間絵図に「かしわ原、茶屋かずかず、ここにうなぎ売りあり」と書かれていること、十返舎一九の東海道膝栗毛の中にもうなぎの蒲焼に関わるエピソードが書かれているなど、柏原宿がうなぎの蒲焼で有名であったことが紹介されている。

吉原湊

鎌倉時代初期、吉原辺りの東西往還路は駿河湾沿いを通り、潤井川の河口部には吉原湊(もしくは小須湊)が形成されるようになった。
現在の田子の浦漁港の東側の鈴川町から対岸の前田にかけては舟渡しが設けられるようになり、鎌倉幕府は、東岸の阿字神社付近に往来の旅人を改めるための見附を構えたという記録があるそうだ。

南北朝から室町期に掛けては、吉原湊は軍事物資や兵糧などを運ぶ湊として栄えるなど水運の拠点となり、戦国時代から江戸時代に掛けて歴史がその中心を東国に移すにしたがって、湊は主に官道の舟渡し場として重要性を高めていった。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際は、善得寺再建に集めた資材をこの湊から伊豆へ積み出したそうだ。
江戸時代になると吉原湊は商業港として脚光を浴びるようになり、千石船が出入りしたそうだ。

1670年頃までは、富士川の流れも吉原湊に流入していたため河口の状況も良く、輸送ならびに交通上重要な役割を果たしたそうだが、その後、富士川が現在の流路に転じたため水勢が著しく減退し、港口の状況も悪化した。
加えて大津波の来襲や台風による土砂で港口の閉塞が繰り返されたため、港口の維持が困難になり、港勢は衰微の一途をたどったそうだ。

所替を繰り返した吉原宿

吉原湊は南北朝から室町期に掛けて軍事・商業的に重要視されたことから、見付があった地は宿場町、港町、そして商業町として「見付宿」と呼ばれるようになった。
しかし、この地は高潮や漂砂の被害が大きかったことから、天文年間(1532年~1554年)に現在のJR吉原駅付近に所替した。その頃の宿場を「元吉原」と呼んでいる。
この「元吉原」も、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、内陸部の現在の富士市八代町付近に所替した。この宿場町を「中吉原」と呼んでいる。
しかし「中吉原」も、1680年(延宝8年)8月6日の高潮により再度壊滅的な被害を受けたことから、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に三度目の所替をした。
このため、原宿~吉原宿間で海沿いを通っていた旧東海道は、吉原宿の手前で海から離れ、北側の内陸部に大きく湾曲することになり、それまで江戸から京都に向かった場合に右手に見えていた富士山が左手に見えることから、吉原の地は「左富士」と呼ばれる景勝地となった。
往時は歌川広重の絵にあるような松並木があったそうだ。

14番目の宿場、吉原宿

吉原宿は、東海道五十三次の14番目の宿場である。現在の静岡県富士市に位置する。
宿場は、原宿からは3里22間(11.8km)、蒲原宿までは2里30町23間(11.2km)
の距離にあり、日本橋からは34里27町22間(136.5km)の距離にあった。
宿場の長さは、12町24間(1.3km)あったという。

宿場は江戸方から東町、東横町、東本町、本町、西本町、西横町、伝馬町、追分中町、追分町と続き、裏町は本町の北側に配置されていたそうだ。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数653戸、宿内人口は2,832人(男1,328人、女1,504人)で、本陣2軒、脇本陣3軒があり、旅籠60軒あったと記録されている。
陸上交通や水運の拠点であったほか、富士参詣の宿駅としても利用された。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/pid/1309897)を加工して作成


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