【街と街道を歩く】東海道を歩く(三島宿~原宿)その4
神明塚古墳
15:00、神明塚古墳に到着。
神明塚古墳は、全長52.5メートル、標高6メートルの前方後円墳。
後円部に神明宮が祭られていることから神明塚古墳と呼ばれている。
塚の周囲には周溝(堀)がめぐらされているが、前方部の周りが崩れており、周溝も大半が埋没している。
当初、この古墳は古墳時代中期~後期(5世紀中頃~6世紀代)のものと考えられてきたが、出土した土器の製作時期などから、古墳時代前期(3世紀後半)にかけて造営された古墳であることが判明したそうだ。
神明宮の階段を登って境内、つまり前方後円墳の後円部を歩いてみたが、あまり古墳の上を歩いているという実感は湧かず、階段を降りて改めて古墳の形状を眺めてみた。
古墳の上に建つ神社とは、なんとも不思議なものだ。
大本山松陰寺
15:50、白隠宗大本山松陰寺に到着。
松蔭寺は、沼津市原にある臨済宗系の寺院。
松蔭寺がその名を全国に知られるようになったのは、臨済宗中興の祖である白隠慧鶴(はくいんえかく)が住職になってからだそうだ。
江戸中期の1686年(貞享2年)、東海道の宿場町原宿(現沼津市原)の商家・長澤家に生まれた岩次郎(幼名)は、1699年(元禄12年)、15歳で松蔭寺3世単嶺住職の元で得度し、慧鶴と名付けられた。
慧鶴が諸国を雲水修行中、慧鶴の兄弟子である透鱗が松蔭寺4世となったが寺務に失敗して逐電してしまい、寺は荒れ果てたまま無住の寺となってしまった。松蔭寺檀家や家族の意向もあり、慧鶴は1716年(享保元年)末に原宿に戻った。
1717年(享保2年)正月に入寺、翌1718年(享保3年)に白隠と号し正式に松蔭寺5世住職に就任したそうだ。
白隠禅師というと「内観の秘法」や「軟酥の法」が有名で私も以前から知っていたが、沼津の松蔭寺の住職だったことは今回、初めて知った。
白隠禅師誕生地「無量堂」
松蔭寺の70m程西に、白隠禅師誕生地「無量堂」があった。
誕生地ということは、江戸時代、この場所に商家・長澤家があったということなのだろう。
無量堂は白隠250年遠諱を記念して、2017年(平成29年)11月9日に建立された仏堂だそうだ。
原宿
原宿は、東海道五十三次の13番目の宿場として設置された宿場で、現在の静岡県沼津市にある。
原宿は規模の小さい宿場であったが、原宿の北側に見える富士山の姿は秀麗で、歌川広重をはじめとして多くの絵師に描かれた景観の地だった。
もともとは現在よりも浜に近い場所にあったが、高波の被害のために1609年(慶長14年)に北側に移転されている。
宿場は、沼津宿からは1.5里(5.9km)、吉原宿までは3里22間(11.8km)
の距離にあり、日本橋からは31里27町(124.7km)の距離にあった。
宿場の範囲は『宿村大概帳』によると、東木戸(見付)の今沢村境(大塚神明神社東)から西木戸の一本松新田(富士浅間神社西まで)、宿場の長さは24町42間(2.7km)あった。
宿場は江戸方から大塚町、東町、西町で構成されていた。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数398戸、宿内人口は1,939人(男957人、女984人)で、本町に本陣1軒、脇本陣1軒(天保9年焼失)があり、旅籠25軒あったと記録されている。
問屋場は東町と西町の2か所にあって半月交代で勤めていたが、東町の問屋場は焼失している。
渡邉本陣
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟、且つ義経の兄)の子孫だそうで、代々平左衛門を名乗り幕末に至っている。
原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名や幕府役人等の宿所として本陣となり名主等も勤めていた。
間口は15~17間で、建坪は235坪、総坪数は山林、畑を含め6600坪の広大な規模であったそうだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?