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【街と街道を歩く】東海道を歩く(三島宿~原宿)その3

乗運寺と若山牧水の墓

千本山乗運寺は、天文年間(1532年 - 1555年)に創建された沼津市にある浄土宗のお寺だ。寺の開基は増誉上人(ぞうよしょうにん)。
昔、この一帯は風害や塩害のため荒地であったことから、増誉はこの惨状を憐んで松の苗を植え続けた。これが後の千本松原になったと言われている。
地元住民は増誉に感謝し、草庵を建てて増誉を住まわせたことが乗運寺の起源だそうだ。
良く手入れされた庭は、すがすがしさを感じた。
門を入って右手に若山牧水の墓があった。

若山牧水の墓

千本松原

沼津の千本松原は駿河湾の海岸線に沿って連なる松林で、約10kmにわたり連なっている。
その由来は、戦国時代に戦で防風林が切り払われた際に、潮風に苦しむ農民の姿を見た千本山乗運寺の開祖・増誉上人が植えたものと伝えられているそうだ。

千本松原

沼津の海岸

千本松原を抜けて海岸の堤防に登ってみた。
堤防から見える海は、東には伊豆半島、西には駿河湾が広がり景色良い風景に心が和んだ。

沼津の海岸

首塚

本光寺に隣接した北西隅に首塚の碑がある。
1900年(明治33年)5月、暴風雨の翌朝、千本松林の中で露出した頭蓋骨が発見された。これを集めて弔ったのがこの首塚だそうだ。
1954年(昭和29年)、東京大学教授の鈴木尚氏によって行われた調査では、百体以上に及ぶ骨はほとんどが青年男子の頭骨で、特に若者達の骨が非常に多いことも確認されたそうだ。
骨の特徴は中世末期のものと推定され、戦国時代の戦いの首実検後に葬られたものではないかと言われている。

首塚の案内板
首塚

若山牧水旧居跡

千本松原の景観に心惹かれた歌人若山牧水は、1920年(大正9年)に沼津に移住してきた。
1925年(大正14年)に木造二階建ての居宅を新築した牧水は3年後の1928年(昭和3年)秋に43歳の短い生涯をこの地で閉じている。
牧水の建てた家は、惜しくも1945年(昭和20年)の戦災で焼失しており、現在は石碑が残っている。

若山牧水旧居跡の案内板
若山牧水旧居跡の石碑

六代松碑

六代松碑は、平維盛の息子平高清(幼名六代)の首がこの地に埋められたという伝承により、本松原の中に建てられた碑となっている。
平氏が都落ちする際、維盛は妻子を都に残したことから、六代は母と共に京都に潜伏していたが、平氏滅亡後の1185年(文治元年)12月、北条時政の捜索によって捕らえられた。
清盛の曾孫に当たることから本来なら鎌倉に送られて斬首になるところ、文覚上人の助命嘆願等があって処刑を免れた。
1189年(文治5年)、六代は剃髪して妙覚と号す。
その後の六代について「平家物語」では庇護者であった文覚が流罪となった後、弟子であったことから修行中であった六代も捕らえられて処刑されたとされている。
ただし、「吾妻鏡」などの史料でこれに触れたものが全くない等の点から、処刑の事実自体を疑問視する見解も存在するそうだ。

六代松碑の案内板

沼津藩領境榜示杭

江戸時代、天領や大名領が入り組んでいるところでは境界が判然とせず、
人々に領境をはっきり知らせる必要があり、街道の傍らに領境を示す榜示杭が立てられた。
沼津は、1777年(安永6年)、十代将軍徳川家治の時代に水野家が入るまでは天領だった。
二万石の大名として沼津藩藩主となった水野忠友は、翌1778年(安永7年)、韮山代官江川太郎左衛門 から城地を引きつぎ、沼津藩創立と共にこの榜示杭を設置したそうだ。

この榜示杭は当時沼津藩の西境に立てられた石製のものだが、明治末期頃に折られて、下半分が失われている。
石には「従是東」と刻まれており、東榜示の下石田には「従是西沼津領」と刻まれた高さ2.12mの榜示杭が完全な形で現存していることから、もとは「従是東沼津領」と刻まれていたと考えられている。

沼津藩領境榜示杭の案内板


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