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【街と街道を歩く】東海道を歩く(三島宿~原宿)その2

平作地蔵尊

11:30AM、平作地蔵尊に到着。
平作地蔵尊の創建時期は不明とのことだが、歌舞伎や人形浄瑠璃の「伊賀越道中双六沼津の段」 に出てくる沼津の平作爺さんにゆかりの深い地蔵尊としてその名を知られているそうだ。
日本三大仇討ちの一つだそうだが、歌舞伎や人形浄瑠璃をあまり知らないもので、今回、初めて知った・・・。

平作地蔵尊
平作地蔵尊の由来の説明板

沼津一里塚

平塚地蔵尊から10分程歩くと沼津一里塚に到達。
旧東海道の30番目の一里塚にあたる。
伏見一里塚からは3kmちょっとしかなく、案内板には「本来は本町地内につくるものを宿場内であるために東方に寄せて、日枝神社旧表参道脇のこの地に築いたと言われています」と書かれていた。

沼津一里塚

三枚橋城址と沼津城址

11:55AM、三枚橋城址に到着。
三枚橋城は、戦国時代、武田勝頼が後北条氏に対抗するために築いた城と言われている。
1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦を経て三枚橋城には、小田原藩主大久保忠隣の叔父にあたる大久保忠佐が城主となったが、子の忠兼が父に先立って死去していたため、1613年(慶長18年)に忠佐が死去すると沼津大久保家は無嗣断絶で改易となり、三枚橋城も廃城となった。
以後、沼津は幕府直轄領となったが、1777年(安永6年)、水野出羽守忠友が三河大浜藩より2万石で転封し、沼津藩は復活した。
沼津城は以前の三枚橋城を利用して築城されている。
本丸跡は現在は中央公園となっているが、往時の面影はなかった。

三枚橋城の本丸跡

三枚橋城の外堀石垣

リバーサイドホテルの通横町交差点側の歩道内に三枚橋城の外堀石垣はあった。この石の下には外堀が今も埋もれているそうだ。
掘り出すとどんな景観になるのだろうか・・・。

三枚橋城の外堀石垣

沼津宿と本陣

沼津宿は、東海道五十三次の12番目の宿場である。現在の静岡県沼津市大手町周辺にあった。
宿場は三枚橋町、上土町、本町の三町で構成され、現在の平町にあった東見附から西側の出口町見付までが宿場の範囲だったとされている。
三島宿からは1里5町(5.9km)、原宿までは1里5町(5.9km)の距離にあり、日本橋からは30里9町(118.8km)の距離にあった。

元禄年間(1680年〜1709年)に描かれた「沼津宿絵図」には、家数510戸、本陣2軒(清水、間宮)、脇本陣4軒(彦左衛門、市左衛門、九左衛門、重左衛門)、旅籠78軒、茶屋13軒とあるそうで、市街地化が進み、街道筋には旅人相手の宿泊施設や飲食店が軒を連ねた様子がうかがえる。

更に時代を下った1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数1,234戸、宿内人口5,346人(男2,663人、女2,683人)で、本町に本陣3軒(高田、清水、間宮)、脇本陣1軒(中村脇本陣)があり、旅籠は55軒あったと記録されている。

高田本陣跡の石碑
中村脇本陣跡の石碑
清水本陣跡の石碑


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